「安全なデジタル社会をつくり、日本を前進させ続ける。」をミッションに掲げ、企業などのデジタルリスク対策領域の先駆者として成長してきた株式会社エルテス(本社:東京都千代田区、証券コード:3967)。主軸であるデジタルリスク事業における同社のサービスは、大手からベンチャーまで1000社以上の導入実績を誇る。同社の創業は2004年。日本発のSNS『mixi(ミクシィ)』がサービスを開始したその年、菅原氏は、東京大学在学中にエルテスを創業した。同氏が着目したのは、インターネットの普及およびテクノロジーの発展に伴い、絶えず生まれてくる新たなリスクの存在。企業を取り巻くそのようなリスクを“デジタルリスク”と定義し、その対策支援マーケットを最前線で創造してきた人物である。時代を先読みし、優れた洞察力で未踏のビジネスを開拓してきた菅原氏の特異な感性は、いかにして育まれたのか。本稿では、同氏の幼少期からの人生ストーリーに焦点を当て、その秘密を紐解いていきたい。

創業22年、デジタルリスクに特化した業界のパイオニア

株式会社エルテス 代表取締役 菅原貴弘さん私たちは、組織内部の不正リスク、SNS炎上などのソーシャルリスク、生成AIの活用に伴うリスク等をはじめとした、“デジタルリスク”の対策支援を行っている会社です。企業を取り巻くリスクの種類は、テクノロジーの発展や人々の働き方の変化に伴い、ますます多様化・複雑化しています。なかでもデジタルリスクの脅威は、たとえ一つの対策を施しても、新たなリスクがキリなく出現するという“いたちごっこ”の領域です。ひとたび被害が発生すれば、企業経営に深刻なダメージを及ぼす可能性があるため、世間が未認識のリスクに対しても先手を打っていけるような、高い専門性とスピードが求められているのです。私たちは、SNSに端を発するソーシャルリスクマネジメント事業を2007年に開始し、2016年には東京証券取引所マザーズ市場(現:グロース)に上場しました。上場企業ならではの透明性の高いサービスを強みに、これまで大手からベンチャーまで、1000社以上の導入実績を培ってきました。世の中のニーズを先読みし、早期から事業を展開してきた我々は、業界特性毎のリスク判定のノウハウをはじめ、豊富な知見を蓄積しています。今後はさらに、ビッグデータとAI技術を強みに、日本社会のデジタル化の前進と安全の提供を両輪で行う事業を推進してまいります。

本家の家長だった祖父から学んだ、リーダーとしての原点

生まれは岩手県の紫波郡紫波町。盛岡市と花巻市の中間に位置する、人口3万人ほどの町です。実家は集落から遠く離れた、山の中の一軒家。林業を営む祖父を家長に、3人姉弟の長男として育ちました。幼い頃の実家は稲作や果樹、家畜も手がけており、牛馬や鶏、ヤギ、ガチョウなど、あらゆる動物が身近にいた記憶があります。私は物心がついた頃から、祖父母と寝起きを共にしていました。本家の家長だった祖父は、家族のなかでも威厳のある存在。父も私も、祖父から「分家に負けるな」と言われて育ちました。代々続く本家・分家の争いは、子や孫の進学先や就職先はもちろん、所有する農機具のランクにまで及びます。「分家が二条刈のコンバインを買ったなら、うちは三条刈だ!」…みたいな(笑)。何かにつけて家同士のマウント合戦を繰り広げていましたね。

祖父から教わったのは、一番になる(勝つ)こと、ときには見栄を張る(ハッタリをかます)ことの大切さでした。分家の子らはもちろん、姉弟や同級生にも負けが許されない環境では、一番になるために自ずと努力するものです。祖父のもとで培った負けん気の強さは、受験や起業、経営など、その後の人生のあらゆるシーンで自分を支えてくれました。人生、ときには多少の無理をしてでも、勝負すべき瞬間があるものです。特に創業期は大風呂敷を広げて、後から必死に辻褄を合わせるような局面もありました。それはかつての祖父が、たとえお金がなくても人にご馳走したり、高価な農機具を買ったりしていた姿を見ていたからだと思います。そうやって見栄を張ることを田舎では「ホラ」と呼ぶのですが、背伸びして良い格好をするのは良いことだという認識でした。

幼少期からの読書習慣は、“本の虫”である父の影響だった

株式会社エルテス 代表取締役 菅原貴弘さん父は地元の森林組合に勤めていました。夕方には帰宅して、家族全員で食卓を囲むのが日常でしたね。地元の農業高校を出て就職し、故郷を一度も離れたことがなかった父。特別な趣味はなかったものの、本をたくさん読む人でした。家には幅広いジャンルの本がありましたが、私が最も夢中になったのが歴史小説。小学生のとき、父の薦めで読んだ『孟嘗君(もうしょうくん)/ 宮城谷 昌光(みやぎたに・まさみつ)著』がきっかけで、司馬遼太郎や吉川英治をはじめ、歴史小説の世界に魅了されていきました。最も影響を受けたのは、『プルターク英雄伝(対比列伝)』。ギリシアの伝記作家プルタコスによる伝記文学で、ギリシアの英雄とローマの英雄を対で描き、登場人物の人格や生き方の比較評価を行う名著です。なかでも私は軍事・政治の天才であるジュリアス・シーザーに憧れ、後に起業する動機にもなりました。勉強についてはまったく口を出さない親でしたが、父のおかげで幼い頃から多くの良書に出逢うことができました。

中学時代から、1日16時間学習&3時間睡眠がスタンダードに

中学生になると、毎日16時間は勉強していました。それまで唯一の強敵だった3歳上の姉をようやく追い抜くことができ、やればやるだけ成績が伸びたので、とにかく勉強が面白かったのです。田舎には進学塾もなく、勉強法は教科書による自主学習のみ。学校の授業よりも、気づけば1年ほど先まで進んでいたと思います。当時の成績は、2位の生徒を100点ほど引き離して断トツの1位。その頃には、自分も頑張れば東京大学に行けるのではないかと思い始めていました。ちなみに私は中学1年生から起業後の28歳くらいまで、ほとんど3時間睡眠でした。

志望校合格の原動力となった、父親との空約束

「本ならいくらでも買ってやるぞ」…子どもの頃は父の安易な口約束に乗せられた挙句、結局は果たされないことが多々ありました。忘れもしない、高校受験時のこと。もしも志望校の函館ラ・サールと盛岡第一の両方に合格したら、払うはずだった一方の入学金を私に渡すと言い出したのです。さて、無事に両校への合格を果たし、盛岡第一高校への進学を決めた私は、胸を躍らせて母に約束の金額を請求しました。すると母は、「うちは貧乏なのに!」と、その場で泣き崩れてしまったのです(笑)。そう…父は母になんの相談もしていませんでした。どうせ守れない約束なら、最初から言わなきゃいいのに…。頑張れば達成できそうなニンジンをぶら下げ、都合よく子どもたちをやる気にさせる…。その意味では、父のほうが実は上手だったのかもしれません。

今も自分を支え続けてくれている、天国の母との思い出

高校1年生のとき、母が他界しました。私は弟が生まれた時点で祖父母と寝ていたので、母と過ごした時間はさほど長くはありませんでした。今でもよく覚えているのは、幼い頃に女の子から木をぶつけられたとき、強く怒ってくれたこと。口うるさい一面もありましたが、とても優しい人でした。15歳で母を亡くし、その存在感と有難さが改めて身に染みたものです。起業後に莫大な借金を背負った時期もありましたが、母を亡くしたときのことを思えば、しんどくても踏ん張る力が湧いてきました。

高校時代、部活を通じて思い知った自己流の限界

中高時代はサッカー部でした。盛岡第一高校は進学校ながら、当時は県内ベスト3の強豪校。自分が一番うまいと思って入部したのに、すぐに現実を知りました。中学の頃は特別な指導者もなく、なんとなく自己流でやっていたんです。ポジションなど関係なく、とにかく人からボールを奪えばいいだけ(笑)。チーム内では、私にボールを渡したら最後だと言われていました。なぜなら誰にもパスをせず、自分でシュートしたがるから(笑)。これはビジネスにも共通することですが、やはり基礎を知らなきゃダメなんですよね。私はサッカーを体系的に教わった経験がなかったので、ドラッグバッグやクライフターンなど、ほとんど試合で使わない技ばかり研究して、基礎を押さえていなかったのです。どうやら才能がないらしい…。当初は学年2位だった成績も、2年生の終わりには80位くらいに下がっていました。そこで部活を辞め、勉強に振り切ることにしたのです。

東大に入れば天下が取れると思っていた

株式会社エルテス 代表取締役 菅原貴弘さん退部後は高校近くの親戚の家に世話になり、勉強時間を増やしました。私は絶対的な勉強量を重視していたので、特に要領が良かったわけではないと思います。結果は東京大学経済学部経営学科に合格。東大への切符を手にしたことで、まるで将来の成功が約束されたかのような気がしていました。しかし、それが情報の少ない田舎にいた自分の幻想だったことに、入学後すぐに気づいたのです。東大生というだけで、特別な何かになれるわけではありません。“勉強ができる”という意味での頭の良さで競ったら、東大には勝てない相手がいくらでもいました。それよりも自分は、敷かれたレールの上を走るのではなく、自ら道をつくる側の人間になりたい…。東大生のリアルを知った私は、新たに天下を取るための道を模索し始めました。

大学1年生、ベンチャー起業家を志す

政治家やNPO活動家、起業家など、将来の選択肢について自分なりに検討しました。たとえ何から始めたとしても、一つのフィールドで培った実績や影響力があれば、のちに他分野にも応用できる…それでも最速の成長を目指すなら、ベンチャー起業一択だと思ったのです。まずは起業準備として、Web系・人材系の企業でインターンを経験。ビジネスの実践的な知識や経験、貴重な人脈を得ることができました。当時はまだ、一般家庭へのパソコンの普及が限定的だった時代です。一方で私は、大前研一氏の書籍を読んでPCスキルの重要性を感じていました。そこでまずは、ブラインドタッチの練習から開始。徐々にフォトショップやイラストレーターの操作方法も覚えていったのです。実は地元の紫波町にもPC教室を立ち上げた時期があったのですが、残念ながら集客が振るわず失敗に終わりました。

エルテス創業と、ベトナムオフショア黎明期の現実

最初の起業は大学2年生のとき。エルテスは2社目の起業で、大学4年生時に5人の創業メンバーで設立しました。当初はソフトウェアの受託開発事業からスタートし、当時まだ先駆けだったベトナムでのオフショア開発を行っていました。あの頃のベトナムは品質意識が非常に低くて、常に悩まされましたね。期日通りに納品されないばかりか、開発途中でエンジニアに逃げられたこともありました。そのときは、自らプログラミングを覚えて何とか納品しました。人生史上最長の2週間の徹夜でしたが…(笑)。

東京大学を中退し、起業家人生にコミットする

当初は創業メンバー5名が、それぞれ別の事業を担っていたんです。1日約16時間の労働を週7日、全員が当たり前のように続けていました。彼らとは、後に別々の道を歩むことになるのですが、うち4名が会社を上場させています。やはりエルテス創業期の“精神と時の部屋”のような修行期間が、後の成長を支えたのかもしれません(笑)。

ちなみに私は大学を中退しています。学費はすべて自分で払っていたので、退学に際して親に遠慮は要りませんでした。ビル・ゲイツだって、ハーバード大学を辞めてマイクロソフトを創業したのです。とはいえ、“東大卒”のブランドを捨てることは、当時の私にとっては大きな決断でした。あえて安住の道への退路を断つことで、事業の成功にコミットせざるを得ない状況へと自分を追い込んだのです。

数年間にわたり、資金繰りに追われた創業期

起業なんて楽勝、3年あれば上場だって出来る!…創業当初の見立てに反して、現実は厳しいものでした。最初の3年間は、常に自転車操業の日々。当時のスタートアップにとっての資金調達の手段は、今とは比較にならないほど限られていたのです。あるときにはクライアントの誤送金のおかげで、なんとか急をしのいだ月もありました(笑)後にソフトウェアの受託開発事業を辞めた際には、さらに窮地に陥ることになります。受託開発は、当時の会社の売上を支えていた根幹事業。しかし、このビジネスを続けていても、会社をスケールさせることはできないと判断したのです。一般的には新規事業が軌道に乗るまで、既存事業を続ける経営者が多いのでしょう。ところが、私は受託開発から全撤退し、新規事業開発にフルベットする道を選んだのです。その結果、会社の口座残高が150円になった瞬間もありました。一方で、当時の借入れ金の総額は約5000万円!あのときは、さすがの私もシビれましたね(笑)。

日本初!検索エンジン上の風評被害・誹謗中傷対策サービスを開始

株式会社エルテス 代表取締役 菅原貴弘さん2007年、当時はインターネットが普及し、ブログや掲示板が流行していた時期。ネット上に溢れる無数の人々によるクチコミの威力を、企業が無視できない時代に突入しました。多くの企業は、自社のブランドや商品の認知拡大や集客のために、SEO対策などに多額の投資をしていました。しかし、ネット上のクチコミには、事実に基づかない風評や誹謗中傷も、同時に溢れるようになっていたのです。そのような悪評を放置すれば、売上や取引、採用活動への悪影響、企業価値の低下など、企業活動のあらゆる方面に被害が及びます。今後は多くの企業が、ネット上の風評被害や誹謗中傷対策に追われるようになる…。私はそこに、新たな市場が開けるチャンスを見出したのです。エルテスは検索エンジン上の企業に対する風評被害・誹謗中傷対策を支援するサービス(現・検索エンジン評判対策)を、日本で初めてリリースしました。創業以来、目先の資金繰りと格闘しながらサイコロを振り続けた先に、ようやく辿り着いた一つの答えでした。これが、現在のエルテスを支えるデジタルリスク事業の始まりだったのです。

創業以来、エルテスの歩みを支えてきた「逆張り」のDNA

株式会社エルテス 代表取締役 菅原貴弘さん私が事業づくりで重視してきたのは、いわゆる逆張りの発想です。検索エンジン評判対策を開始した2007年は、世間がデジタルマーケティングに熱狂していた時代。実はそのようなトレンドの影にこそ、新たなビジネスチャンスの種が隠れているのです。世間の大多数が価値を認め、既に加熱している市場には参入しない。むしろその周辺で、まったく新たなマーケット(当時はネット上のレピュテーション対策市場)を発掘することがベンチャー企業の価値であると考え、独自のポジショニングにこだわってきました。その後も多角的なビジネス展開を行ってきましたが、いずれの事業にも逆張りのDNAが息づいています。たとえば、DX化の波が訪れたとき。私たちは、社内情報のデジタル化に伴って生じる“情報の持ち出しやすさ”のリスクに着目しました。そして、社内からの情報漏洩などの内部脅威検知サービスを提供する『IRI』(Internal Risk Intelligence)というプロダクトを開発したのです。また昨今では、生成AIやAIエージェントを社会実装するための議論に世間の注目が集まっています。一方で私たちは、「AIシールド構想」という“守りの生成AI”のコンセプトを通じて、今後の需要の高まりが期待されるコンプライアンスリスク領域への市場参入を行ってきました。

選択と集中で挑む、2030年への成長シナリオ

株式会社エルテス 代表取締役 菅原貴弘さん

2016年の上場から10年の節目を前に、私たちは大きな転換期を迎えています。まずは東証グロース市場が定める上場維持基準(時価総額100億円)を、2030年までに達成することが喫緊の課題です。その実現に向け、本格的な成長軌道へ回帰するには大胆な経営変革が必要でした。そこで、多角化してきた事業を思い切って整理し、最も優位性・収益性の高いデジタルリスク事業をコアにした成長戦略を策定しました。当面は事業の選択と集中により、株式市場においてもデジタルリスク/セキュリティ銘柄として再評価・認識されることを目指します。

私たちの使命は、“デジタルリスク”の盾となって皆さまをお守りすることです。たとえば、企業で内部不正が起こったとき、すぐさま「エルテス!」と想起いただけるような存在になりたい。あくまで実現したいのは、テクノロジーが発展した豊かな社会です。生成AIのような新技術も、リスクを恐れて避けるのではなく、安全に使える仕組みがあるから使おうと、誰もが思えるようなポジティブな社会。それが実現すれば、個人も企業も、もっとスピード感をもって成長できると思うのです。私たちは、その成長を支えるインフラの一つ、「電気・水道・ガス・エルテス」と呼ばれるような存在に、本気でなりたいと思っています。今後もエルテスは独自性を追求し、未来志向のサービスを提供し続けることで、日本社会にイノベーションを起こしていきたいと考えています。

 

◆ 編集後記 ◆

菅原社長の第一印象は、重厚感があって、やや近寄りがたい存在感のある方。しかし、取材を通じて、ぽつりぽつりと口にされる一言が、いずれも我々の想像を遥かに超えたユニークな回答ばかりで、驚きと笑いの絶えない90分となった。やはりちょっと、常人ではない。中学時代から3時間睡眠の生活を長らく続けてきたという話には、思わず舌を巻いた。幼い頃より成績優秀、さらに1日16時間の猛勉強で東大に合格。しかも、その東大をあっさり中退している!人生のいろんな局面において、とにかく極端なのだ。「東大中退」「受託開発全撤退」など、若い頃からリスクを顧みなかった菅原社長が、“デジタルリスク対策”という守備の領域を生業にされたのも意外性があって面白い。

さて、取材中に頻出したのが、世界の古典や歴史上の人物の数々。どうやら歴史に関する造詣が非常に深い方のようだ。筆者には、かろうじて耳にした記憶がある?…という程度の作品名や人物名ばかり。果たしてそのような教養は、実際の人生や経営に役立つのだろうか。もしも答えが「Yes」なら、ぜひ代表的な古典に挑んでみたいと思い、ご本人に伺ってみた。非常に興味深かったのは、人生の逆境時における凌ぎ方には、歴史から学ぶことが多いという回答。一方で、成功譚は時運などの要因が大きく、意外と応用しにくいそうだ。エルテス創業期、資金繰りに窮した菅原社長が手に取ったのが、イタリア・ルネサンス期の政治思想家、マキャヴェリの代表作『君主論』だった。同書のなかで、理想的な統治者像として描かれるイタリアの軍人・政治家、チェーザレ・ボルジア。同人物の危機における凌ぎ方から、菅原社長は当時の厳しい局面を打開するためのヒントを得たそうだ。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」――ドイツの政治家・ビスマルクの格言にもあるが、変化の激しいこの時代、菅原社長のような教養の引き出しを豊富に備えたリーダーの存在は、企業経営にとって特に重要になるかもしれない。

バイトテロ、ネット炎上、個人情報流出事件、CM炎上、仮想通貨流出事件…。エルテス創業から約20年の間に、企業を取り巻くデジタルリスクは数々の変遷を遂げ、そのたびに社会への脅威を振るってきた。生成AIが普及していく今後、その勢いはますます加速していくことだろう。未来にどんなリスクが現れるのか…?既に成熟した市場ではなく、今後の成長余地のあるマーケットを創造していく立場の仕事は、厳しいけれどエキサイティングでもある。そして、数々の生みの苦しみを乗り越えた先に、「安全なデジタル社会の実現」という非常に意義深い成果を得ることができるのだ。どんな市場に身を置くかによって、私たち個人の未来も大きく変わる。自己成長や社会的意義を求める次世代の人材にとって、非常に面白いキャリアが築ける会社ではないかと感じた。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

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