株式会社インバウンドホールディングス(本社:大阪市西区)は、「エンターテイメントの力で世界を優しくする」をミッションに、ホテル業、民泊運営業、メディア運営などを通じて、外国人観光客に感動の訪日体験を提供するための総合的なサービスを展開している。同社の設立は2024年。インバウンドビジネスを手がける企業としては後発に見えるかもしれない。実は創業者の坂本社長にとって、今回は初めての起業ではない。かつて日本にインバウンドの第一次ブームが訪れた2017年、不動産大手のAPAMANと合弁会社を設立し、民泊・ホテルの開発・運営事業を手がけていた。業界最大規模まで事業を成長させ、上場準備に入るもコロナ禍により売上が激減。資金繰りに窮した末に会社は倒産し、個人としても自己破産を余儀なくされた。つまり今回の起業は、一度すべてを失ったところからの再チャレンジなのである。50歳を迎えるまでに時価総額1000億円企業を目指す!―― かつて果たすことのできなかった株式上場はあくまで通過点であり、掲げる目標はさらに高い。大きな挫折を味わってもなお、その常人離れしたバイタリティは、いったいどこから来るのだろうか。本稿では、坂本社長の幼少期にまで遡り、その人格形成に至った経緯や情熱の源を探っていきたい。
日本に来るなら、インバウンドホールディングス!
私たちは、訪日外国人観光客を対象に、インバウンドサービスを提供している会社です。インバウンド関連のビジネスには、宿泊業や飲食業をはじめ、ツアー企画やガイド、小売、メディア運営、交通・移動に関するサービスなど、実にさまざまな領域があります。日本には、各分野に専門特化したプレイヤーは多数いる一方で、インバウンドビジネスの“代名詞”と呼ばれるほどの企業はまだありません。「インバウンドといえば、あの会社!」…世間の共通認識として名前が挙がるような、日本のインバウンドビジネスを象徴する企業。私たちは、そのポジションを獲りに行きたいと考えています。
日本を旅する全ての人のインフラ企業へ
そのための戦略として、日本を旅する人々の体験価値が高まるような“インフラづくり”に注力してきました。具体的には、訪日外国人観光客の渡航前から滞在中、帰国後にわたるまで、すべてのプロセスに私たちのサービスとのタッチポイントが生まれるよう、3つの軸で事業を展開しています。
1つ目が、日本に関する情報発信を通じて、渡航前(旅マエ)のターゲットにリーチするためのメディア事業。自社で運営しているショート動画メディア『SPOT JAPAN TV』では、TikTokやInstagramを通じて、日本のグルメやホテル、観光スポットにまつわる情報を魅力的に発信しています。2つ目は、滞在中(旅ナカ)の旅行者にアクセスするための主力事業。私たちには全国500室以上の宿泊業運用実績(コロナ前を含めると累計3000室の運用実績)があり、ホテルから民泊まで、無人・有人いずれの環境にも対応可能なオペレーションを完備しています。現在の年間宿泊者数は50万人、全体稼働率は87%に上ります。また、日本での滞在時間をより豊かに過ごしていただけるよう、グルメや文化体験など、カテゴリごとに厳選された近隣4店舗のみをレコメンドする検索サイト『SPOT JAPAN』も運営。こちらは主にホテルの客室内にQRコードを設置しているため、掲載店舗の情報を、リアルタイムで近隣に滞在中の外国人に届けることができます。旅行者にとっての利便性はもちろん、掲載店舗にとっての広告効率性、ホテルにとっての宿泊料以外のマネタイズポイントを同時に提供できるのです。3つ目は、帰国後(旅アト)の旅行者と日本の架け橋となるEC・物販事業。日本を離れた後もファンであり続けていただけるよう、価値ある商品に出逢える越境ECサイトを制作中です。
このように、私たちは「旅マエ」「旅ナカ」「旅アト」のプロセスを網羅的にサポートすることで、日本を旅する全ての人、およびインバウンドのビジネスチャンスを求める国内事業者様にとって、必要不可欠な“インフラ企業”としてのポジションを確立したいと考えています。今の時代、一連の事業の拡大・加速化を推進するには、WEBマーケターの役割が重要です。その点、私たちには広報、SNSマーケティング、デザイン、エンジニア、広告運用など、各分野のスペシャリストが揃っています。また、宿泊業を通じたインバウンドの顧客ベースがあるため、旅ナカ・旅アトの顧客獲得に広告費を要さないことも、私たちならではの強みの一つと言えるでしょう。
ニューメキシコ州生まれ、九州育ち
生まれは米国ニューメキシコ州アルバカーキ。州の中央部に位置する商工業都市です。とはいえ、1歳になる頃には日本に帰国していたので、当時の記憶はまったくありません。医師だった父が、現地の大学院で学位を取得するために渡米していたようです。私自身は物心ついた頃から高校卒業まで、ほとんど福岡で過ごしていました。
※ちなみに4人兄弟の長男でした。
幼くして「論理性」が鍛えられた、大人たちとの闘い
幼い頃から、わりと理屈っぽい子どもだったと思います。こちらが納得できるだけの説明もなく、結論ありきで大人が物事を押し付けてくるのが大嫌いだったのです。たとえば、親や先生に叱られたとき。子どもなりに、自分の選択や行動には理由があるのに、大人はたいてい聞く耳を持ってくれません。往々にして、「ルールだから」の一点張りや、頭ごなしの叱責で片付けられてしまうのです。そんなときは悔しくて、いつまでも反論を練り続けていました。もしも同様の状況が訪れたら次こそ論破できるよう、頭の中でシミュレーションを重ねていたのです。相手の反応や質問を想定し、前もって準備をしておく習慣は、後に社会人になってからいろんなシーンで役立ちました。私が周囲から「論理的」だと言われるようになったのは、大人に対峙するための理論武装に努めた過去があったからかもしれません(笑)。
冷静な自己認識のもと、独自のポジショニングを模索していた
小学生くらいから、自分は凡人だと思って生きてきました。運動神経も成績も悪くない。友達にも囲まれ、楽しく過ごしていました。しかし一方で、自分には突出した強みがないことも早くから認識していたのです。子どもの頃って、誰しも人気者になりたいという願望を抱えているものですよね。そのためには、何か一つでも目立つものが必要です。しかし、クラスには自分より足の速い友達がいる。サッカーをやっても勝てない相手がいる。勉強でも1番にはなれない。みんなを笑わせて、いつも注目を浴びている人気者がいる…。さて、それなりに器用な反面、際立った強みを持たない自分は、果たしてどんなポジションを取れば目立つ存在になれるのか…?自己を俯瞰・分析して、そんなことを常に考えていました。その意味では、メタ認知能力は高かったのだと思います。
スポットライトを浴びるべく、打算的に選んだスポーツ
特別な存在でありたい、集団のなかで独自のポジションを獲りたいという願望は、高校時代の部活選びにも如実に現れています。…というのも、私は校内の部活には所属せず、近所のボクシングジムに通い始めたからです。それまでは、幼稚園からずっとサッカーを続けてきました。楽しかったし努力もしましたが、残念ながら頭一つ抜けるほどの実力はありませんでした。そもそもサッカーは競技人口(ライバル)が多過ぎるのです。同じ努力をするなら、今度はちゃんと自分にスポットライトが当たるような競技を選びたい…思春期ですから、それが物事を決めるうえでの優先順位でした。ボクシングなら、高校生から始めても活躍できる余地があるし、何より競技としてかっこいい。特に昔から好きだったスポーツというわけでもなく、打算的に選んだ道でした。
高校時代の記憶はボクシング一色
高校3年間は、ほとんどボクシング漬けの毎日でした。部活もせずにフラフラしているような輩にはなりたくない…当時の私は、いわゆる“意識高い系”だったのでしょう。高校にはボクシング部がなかったので、近所のジムに通っていました。放課後は毎日、自宅の最寄り駅から4駅ほど離れたボクシングジムまでランニング。練習を終えたら自宅に戻り、夕食後には再び走っていました。当時は強くなりたいと望む一方で、ストイックに励んでいる自分自身に酔っていた部分もあったと思います。そのうち3歳下の弟もボクシングを始め、自宅の和室は2人の練習場に変わりました。今でも実家に帰ると、障子がボロボロのままになっています(笑)。
進学校にいながら、ボクシング最優先の進路選択をする
水泳、剣道、サッカー、ボクシングなど、それまで私がやりたいことなら何でも経験させてくれた父も、さすがにボクシングのために大学を選ぶことには反対でした。当時の私は岐阜県にあるボクシングジムに目を付け、その最寄りの大学を受験したいと言い出したのです。せっかく進学校にいるのだから、有名大学への推薦枠もあるのに勿体ない。ボクシングジムなんて、探せばどこにだってあるじゃないか…父の意見は、至極まっとうなものでした。しかし当時の私には、どうしても譲れない理由があったのです。入会したかったのは、ミニマム級の元世界チャンピオンである星野敬太郎氏が引退後に開設したボクシングジム。「テクニシャン」の異名を持ち、高い防御力と技術を駆使した彼のボクシングスタイルは、私にとっての憧れでした。高校3年間を通じて自分の実力にそれなりの手応えを感じていた私は、そこからプロを目指そうと思っていたのです。
大学1年生、プロボクサーへのキャリアが断たれる
父を説得し、岐阜聖徳学園大学に望み通り入学。星野氏のボクシングジムに入会しましたが、その直後に私を待ち受けていたのは、まさかのドクターストップでした。レーシック手術を受けるために眼科を訪れた日。そこで発覚したのは、私の目の構造上の理由から、手術は適さないことでした。さらに、生まれつき衝撃への耐性が弱い私の目は、失明リスクが非常に高いことが判ったのです。たとえヘディング程度の衝撃だとしても危険。ボクシングなど、もっての外という診断でした。私は重度の近視のため、裸眼で闘うことはできません。さらに競技を続ければ、直ちに失明するリスクもある。まさに青天の霹靂でした。突きつけられた現実に、当時は意地を張ってでもプロの道に進むことも考えました。しかし、このときばかりは父に本気で止められたのです。私のプロボクサーの夢は、こうして強制的に断たれたのでした。
10代で経験した、最愛の母との死別
同時期に、母を病気で亡くしています。そこから約半年間の自分は、まるで抜け殻のような状態でした。ボクシングをするために大学を選んだのに、自分にはどうしようもない理由で道が断たれてしまった…。そこに追い打ちをかけるかのように母の死が重なったことで、すっかり希望を失っていたのです。「4人の子どもを残して、まだ死にたくない」…母は病床で何度もそう言っていました。ほどなくして、冷たくなった母の手を握ったあの日の感覚は、今もけっして忘れることができません。当時は辛すぎる現実を受け入れることができず、しばらく何もする気になれませんでした。
時代の寵児、ホリエモンに感化され起業家を志す
このまま塞ぎ込んでいてはダメだ…それは自分でも解っていました。まだ始まったばかりの学生生活、漫然と過ごしたって退屈なだけ。思えば自分の人生が最も充実していたのは、いつだって何かに熱中している瞬間でした。とはいえ、当時の私が住んでいたのは岐阜市郊外の町。刺激や情報の少ない環境では、夢中になれるものなど簡単には見つからなかったのです。そんな折、ふと目に飛び込んできたのが、東大中退後にライブドアを急成長させた実業家、堀江貴文氏の存在でした。2005年当時のホリエモンは、ニッポン放送の株式大量取得に始まり、フジテレビとの株式戦争、衆院選への出馬など、連日メディアを賑わせていました。それまでの私にとって、社長といえばスーツ姿のおじさんのイメージ。一方のホリエモンは30代で、Tシャツ&ジーパン姿で公の場に現れるなど、当時の日本社会においては異端の存在だったのです。その歯に衣着せぬ物言いや、権威に一貫して抗う若き挑戦者の姿に、大きな衝撃を受けたことを覚えています。それまでの自分にはなかった“起業”という選択肢を意識したのはこの頃からでした。
大学生活、持て余したエネルギーが向かった先は…
今ならベンチャー企業のインターンなどに参加して、起業準備をする道もあったのでしょう。しかし、当時の私がいた環境に、そのような選択肢はありませんでした。とにかく自力でお金を稼いでみたい!いつしか私は、好奇心とエネルギーを持て余すようになっていたのです。
ところが…それから程なくして、私は近所のスロット店に通うようになっていました。そう、私が辿り着いたお金を稼ぐための手段は、まさかのギャンブルだったのです(笑)。とはいえ、私の場合は勝率を上げるために、かなり真剣に取り組んでいました。当時の私がスロットで稼いでいた収入は、いわゆる大企業の中堅社員の年収レベルを優に超えていたのです。最初のきっかけは、スロット好きなボクシング仲間に習って、軽い気持ちで打ってみたこと。それを機に、見事にハマってしまったんですね(笑)。そして、研究と分析を重ねるうちに、どうやら単独プレイでは効率が悪いことが解ってきました。そこで友人たちに時給+成果報酬を払い、組織的に打ち始めたのです。当時の岐阜県の最低時給は700円程度。それより高い報酬が得られ、しかも夕食付きでしたから、友人たちにとっては割の良いバイトだったはずです(笑)。最終的には15名超の組織をつくり、私はディレクションに入るだけで、自分の手を動かすことはなくなっていました。
数年間、スロットに没頭した経験から得られたもの
スロットで得た収入はあくまでギャンブルですから、社会に価値を提供したことへの対価ではありません。一方で、この頃に体得したマインドや経験は、社会人になった後の自分を支える土台になったと、今になって思うのです。スロット店には、いわゆる“スロプロ”と呼ばれる人たちも出入りしています。ギャンブルを専業とする彼らと同等に闘うためには相当の研究が必要ですし、いい台を獲るためには早朝の店頭にだって並ぶわけです。それでも自分の身体は一つですから、ときには店の傾向を掴むために友人にアルバイトとして潜入してもらったり、自ら立てた仮説を検証するために友人にリサーチを依頼し、フィードバックを得たりもしていました。学生のうちに、成果を出すための時間的なコミットはもちろん、アイデア出しやフレームワークづくりなど、多くの試行回数を重ねる経験ができたことは良かったのではないかと自負しています(笑)。
大学3年生、1年間のアメリカ留学へ
大学3年生の夏から1年間はアメリカで過ごしました。大学の提携先の語学学校がウェストバージニア州にあったので、語学留学をしたのです。当時の私には、ボクシングへの未練が残っていました。将来はボクシングジムを経営したい…漠然とではありますが、そんな夢を抱いていたのです。その当時、アメリカと日本ではボクシングのスタイルや育成思想に違いがあると聞いていました。アメリカはディフェンス重視、日本は攻撃・根性型に寄っている傾向があり、私は自分の身体能力や特性を考慮したうえで、当初から前者のスタイルに魅力を感じていたのです。将来は本場のトレーナーを日本に迎え、強い選手を輩出するようなボクシングジムを創りたい…そのためには英語ができたほうが良いだろうと思い、留学することにしたのです。ちなみに費用は一部のみ親から援助を受けましたが、ほとんどはスロットの基金から賄いました(笑)。
留学するにあたって決めていたのは、日本人とはつるまないこと。せっかく英語を学ぶためにアメリカまで来たのに、日本語を話していたら意味がありません。とはいえ、異国の地で心細くなることは目に見えていました。だから入学早々に、日本人のクラスメートたちには一緒に行動しない旨を宣言したのです(きっと感じの悪い奴だと思われたことでしょう)。滞在中は、とにかく日本人以外の友達と過ごすことで英会話の習得に努めました。一緒に飲みに行ったり、サッカーやアメフトを楽しんだり、パーティーに参加したり…座学はそこそこに、遊びを通じてリアルな英語を学ぶことができました。
新卒で証券営業へ。入社早々、成果に対する執念を炸裂させる
新卒で入社したのは日興コーディアル証券(現SMBC日興証券)でした。証券業界を選んだ理由は、最もタフな営業職だと聞いていたから。また、3年後には起業すると決めていたので、社長に会える仕事がしたかったのです。内定をいただいた証券会社のなかで初任給が高かったことも、起業資金を貯めるうえで入社の決め手になりました。
配属先は大阪支店。約200名のセールスが所属する一大拠点でした。このなかで、自分が断トツ優績者になってやる!…そう意気込んで入社した私は、1年目から誰よりも成果に対して貪欲でした。幸運にも、当時の上司は最年少で課長になった優秀な人。さっそく直々にお願いし、課長のデスクの隣に自席を確保しました。新入社員の最初の仕事は1日350件のテレアポなのですが、私は受話器を片手に、常に課長の仕事を観察していました。定時を迎えると、すぐさま課長を質問攻めに!仕事ができる上司の一挙手一投足に、どんな意図や戦略が隠されているのか、とにかく知りたかったのです。また、自分が教わる立場にありながら、上司に食ってかかる日もありました。課長の指示通りに行動したのに、なぜ成果が出ないのか?僕の24時間を差し上げるので、結果を出させてくださいよ!…こんな調子で、生意気にも上司を問いただしていたのです(笑)。
起業と倒産、自己破産を経ての再スタート
証券会社には、約2年半お世話になりました。2015年、とあるご縁から道の駅に関連する事業を立ち上げることになり、最終的に読売テレビ放送に事業譲渡を行いました。その過程で初めて民泊事業に参入し、その成長性を強く感じるようになったのです。
2017年、私は新たにAPAMANと民泊の開発・運営を行う合弁会社を立ち上げました。翌年には丸紅との資本業務提携を結び、順調に上場準備を進めていた矢先…未曽有のコロナ禍が到来したのです。当時の私たちの民泊業はサブリースによる運営スタイルだったため、物件オーナーに固定の家賃を支払っていました。運営代行業であれば需要に応じて規模を縮小することもできたのですが、当時は売上が93%減の危機に陥っても、家賃を払い続ける必要があったのです。解約の交渉をしようにも、もはや間に合わず…資金繰りに窮した末に会社は倒産。私自身も自己破産に陥りました。
悔しさ、惨めさ、後悔…当時はあらゆる感情を味わいました。それだけでなく、多くの方々にご迷惑をおかけしたのです。自己破産をしたら、人は離れていくものだと思っていました。しかし実際には、多くの人が私を気にかけ、支えてくださったのです。変わらず側にいてくれた友人、仕事をくださった方々、そして何より、それまでと変わらぬ日常を過ごそうと努めてくれた妻や家族…当時の私を支えてくださったすべての方々に、今でも心から感謝しています。このまま終わるわけにはいかない…!奮起した私は、1日4時間睡眠で必死に働き続けました。当時は有難いことに、アイドマ・ホールディングスの三浦社長と新規サービスの立ち上げをご一緒させていただく機会を得て、現在の事業にも繋がる貴重な経験をさせていただきました。このように、一度すべてを失い、ゼロから立て直すまでの期間を経て、私は多くのことを学びました。大切なのは、たとえ大きな失敗をしても諦めずに努力を続け、小さな信頼を積み重ねていくこと。そうすれば、必ず誰かが見てくれていることを身をもって知ったのです。
さて、必死に走り続けた先にようやく自己破産に関する残務整理が完了した頃、かつて上場できなかったことへの悔しさが怒涛のように込み上げてきました。そこで2024年9月、私はインバウンドホールディングスを立ち上げることで再起を誓ったのです。以前は上場するまでが、一つのゴールだと思っている節がありました。しかし、せっかく30代で派手に転んだ身です。一度きりの人生なら、もっと大きな挑戦をしようと思いました。目指すは上場後も成長を続け、社会に明るい変化をもたらすような企業。そこで社名の通り、将来的に持株会社化をして、さまざまな子会社を立ち上げるという構想でスタートしました。
可能性しかない超・成長市場!インバウンドで、日本一を獲る
インバウンドビジネスは、今の日本に残された数少ない超・成長産業です。事実、2025年の訪日外国人旅行者数は4000万人に上り、消費額も過去最高額となる約9兆5000億円に到達。2030年には旅行者数6000万人、消費額15兆円を達成するという目標を、日本政府が掲げています。人口減少、少子高齢化による内需の縮小が加速していく日本において、これほど可能性に満ちた市場が他にあるでしょうか。しかも、先に述べたように、この巨大市場には“王様(=日本のインバウンドの代名詞として君臨する企業)”が不在なのです!この千載一遇のチャンスを、私たちは本気で獲りにいきます。外国人観光客の訪日体験を、「旅マエ」「旅ナカ」「旅アト」を貫く一本の“線”で結び、それを辿るなかで生まれる人々の感動や喜びが、ひいては市場全体の価値を最大化していく…。それこそが、私たちが描く日本のインバウンドの未来像です。50歳までに時価総額1,000億円 ――このような目標設定ができるのも、舞台が成長市場だからこそ。インバウンドで、日本一を獲る!当初はたった一人で掲げた夢も、今では多くの仲間が想いに共鳴し、共に走ってくれています。日本発、世界に誇れる巨大なエンターテインメント事業を、私たちが誰よりも楽しみながら築いてまいりたいと思います。
◆ 編集後記 ◆
坂本社長の第一印象は、シュッとしていてスマートな人。しかし…今からほんの数年前、ご本人が30代前半の頃には、会社の倒産と自己破産の渦中にあった。まさかそこまで波乱に満ちた人生経験をお持ちだとは、その爽やかな笑顔からは想像もつかない。驚くべきは、当時のドン底状態からさほど時を経ずして、今も新たにも会社を起業されていることだ。その人並み外れたバイタリティは、生来の特性なのだろうか?その観点で過去の人生を紐解いていくと、既に少年期にはその片鱗が垣間見えており、青年期には完全に出現している!やはり、そもそも会社員に収まるタイプではなかったようだ。
学生時代のスロット談や証券営業時代のエピソードなど、坂本社長の人生ヒストリーは、起業前の時点で既に面白い。そのせいで、実は起業後のストーリーに至る前に取材時間が終わってしまった(笑)。彼にはどうやら、人生のあらゆる時点で一貫している点がある。それは、目的達成のためにまずは世界を俯瞰し、自身の特性や立ち位置を踏まえた上で、冷静に勝ち筋を分析する戦略性。そして、明確な目標と仮説を設定し、圧倒的な試行回数を重ねる実行力。これは、突出した才能を持たない筆者のようなビジネスパーソンこそが応用したい、実に示唆に富んだ生存戦略であると感じた。
そんな坂本社長が目を付けたのが、日本のインバウンド市場。それが今後の成長産業であることはもちろん、彼がこのビジネスを選んだ理由は他にもある。ご自身に留学経験もあり、海外に多くの友人を持つ坂本社長には、現状の日本社会に漂う空気に対する危機感がある。それは、昨今の日本社会で加速している排外主義の風潮だ。当然ながら、外国人だから犯罪を起こすわけでもないし、マナーが悪いわけでもない。国籍に関係なく、良い人間も悪い人間も存在するだけだ。自分たちの子どもの世代に、どんな社会を引き継ぎたいだろうか。どうせなら、差別や偏見、争いに満ちた世界ではなく、相互理解とリスペクトに溢れた平和な社会を築いていきたいものである。まさにインバウンド産業は、私たち日本人と世界の人々が絆を深めていくための草の根の活動と言える。そんな坂本社長の事業への想いが、「エンターテイメントの力で世界を優しくする」という会社のミッションとして体現されているわけだ。
未来を語る坂本社長の瞳には、強い信念が宿る。若くしてお母様を亡くしたことで人生の残り時間を強烈に意識するようになり、数度の起業で酸いも甘いも嚙み分けてきた坂本社長には、もはや恐れるものはないのかもしれない。インバウンドで、日本一!近い将来、同社が業界の玉座を獲得する日を見届けるのが、今から非常に楽しみである。
取材:四分一 武 / 文:アラミホ
メールマガジン配信日: 2026年4月27日




