株式会社デジタリフト(本社:東京都港区西麻布)は、デジタル広告の「取引(Trade)」を広告主に代わって行い、ユーザーのもとへ広告を届けるTD(Trading Desk)企業として、2012年に設立された。2021年9月には東京証券取引所グロース市場への上場を果たし、現在では広告だけでなくあらゆるデジタルマーケティング施策を統合的に支援できる体制となっており、さらなる成長が期待される注目の企業である。さて、数あるマーケティング支援 企業のなかで、ひときわユニークな存在感を放つ同社。創業者は、いったいどんな人物なのだろうか。本稿では、同社の事業内容はもちろん、創業者である百本氏の生い立ちにまで遡り、彼が築き上げてきた企業価値の原点を紐解いていきたい。

株式会社デジタリフト 代表取締役 百本 正博さんクライアントとエンドユーザー双方の利益をリフトしたい。

弊社ではクライアントと同じ視点を持ち、その先にいるエンドユーザーの利益を追及することが結果的にクライアントの利益になると考えています     。例えばWEB広告では、エンドユーザーに対して、適切なタイミングと内容のデジタル広告をお届けすること。それは、広告主への利益貢献はもちろん、情報過多な現代社会を生きる人々の暮らしを、より快適で豊かなものへと変えていくことに繋がります。

デジタルマーケティングに関するソリューションを、一社完結で提供する。

弊社は2012年に、運用型広告のTD(Trading Desk)企業として事業を開始しました。     様々なマーケティングデータを安定的に収集できるポジションにあるため、広告配信に至る以前の段階からデータを活かしたマーケティングのコンサルティングを担ってまいりました。現在はWEB広告に限らずアフィリエイト、SEO、バナーやLPなどのクリエイティブ制作、SNSアカウント運用、インフルエンサーマーケティングなど、クライアント企業のデジタルマーケティングに関するソリューションをワンストップで提供できる体制となっております。

マーケティング全体を俯瞰し、お客様の経営課題を共に解決するパートナーとしての価値をご評価いただき、長期的なお取引を実現しています。また、案件のご紹介率が多く。見込み度の高いお客様に対して具体的なご提案からスタートできるため、営業効率が良いことも弊社の強みです。運用業務を     社内の人材で担い、精度にこだわる一方で、宮崎・千葉・沖縄に     サテライトオフィスを     設置し、運営コストを抑えております。常に技術革新の最先端に適応しサービスの品質を担保してまいりました。     スタートアップから大手企業まで、あらゆる業種や規模のお客様のニーズに対応しております。

今後の成長が期待されるサービス「 CdMO(シーディーエムオー)」

マーケティングの世界のみならず、モノがありふれた時代において様々な企業で、CMO(チーフ・マーケティング・オフィサー)の重要性が高まっています。       CMOは企業において、マーケティングの視点から経営課題の解決を担うポジションです。彼らは非デジタル領域のマーケティングを熟知していることはもちろん、目まぐるしいスピードで進歩するデジタル領域についても、常にキャッチアップしていくことが求められる立場です。弊社が注力しているサービス「CdMO(チーフ・デジタル・マーケティング・オフィサー)」は、そのようなCMOの方々の悩みに寄り添い、適切なご支援をするパートナーとしての役割を目指しています。SNS、広告、SEO、アフィリエイト、クリエイティブなど、デジタル領域の知見を網羅しているだけでなく、マーケティング全般の領域にも造詣の深いスペシャリスト集団であることが、弊社が目指す「CdMO」の姿です。運用型広告の枠を超え、クライアントの経営課題を共に解決するパートナーとしての役割を担うことで、競合他社に対しても大きな差別化が図れると考えています。

株式会社デジタリフト 代表取締役 百本 正博さん将来の夢は電気工事!? 自営業の父に洗脳されていた幼少期。

生まれは東京都練馬区、5~6歳頃からは杉並区で育ちました。私は3人の姉の後に生まれた、いわゆる「末っ子長男」です。これを云うと、さぞかし甘やかされて育ったのだろうなんて誤解を受けることがあるのですが、一切そんなことはないですよ!(笑) 私の両親は、ともに長崎県平戸市の生まれです。父は遠洋漁業の元機関士で、30代で体調を崩したのを機に、仕事を求めて家族で上京しました。その後、空調設備の会社に就職して独立しています。私が育った家は、父の会社の事務所と住居が一体化した環境でした。幼い頃から社員のお兄さんたちに遊んでもらったり、ときには殴られたりしながら、いわゆる職人気質の激しい環境で育ちました。また、私は物心がついた頃には、父からの強烈な洗脳を受けていました。隙あらば念仏のごとく、「お前はこの会社を継ぐんだ」…と聞かされて育ったのです。事実、小学校の卒業文集を開くと、将来の夢に「電気工事」と記されています。それ以外の選択肢など、そもそも与えられていなかったんですね。今でもよく覚えているのは、家庭訪問で私に中学受験を勧めてきた教師を、父が怒り狂って追い返したこと(笑)。確かに父からは学校の成績について、とやかく言われた記憶は一切ありません。その代わり、「友人を裏切るな!」と、日頃から繰り返し叩き込まれていました。「自分も悪事に加担しておきながら、都合が悪くなった途端に友人を見捨てるような奴には絶対になるな。ウソをつく奴は最低だ!」…といった感じです。ちなみに友情ばかりを優先すると、得てして学校では厄介者になったり成績が下がったりしがちですが、父はそれで上等だと考えていたようです(笑)。

小学4年生から少年野球を始めた私は、中学校でも野球部に入部しました。さて、小・中学生時代を通して、私は思ったことをすぐに口に出すタイプだったので、学校の先生にはよく怒られましたね(笑)。勉強が得意だからとか、足が速いから注目されるとかではなく、いわゆるお笑いキャラとして、何かと悪目立ちしていたような気がします。

目標もなく、堕落していた高校時代。

高校時代は、ほとんど毎日のように渋谷をぶらついていました。部活に入らなかったせいで(野球部のない高校でした)時間を持て余していたのと、なんとなく自分が、学校の環境にフィットしていないような感覚があったのです。一方で、気の合う友人と渋谷へ行けば、そこには「居場所」じみたものがありました。名前を知る者もそうでない者も、ほぼ全員が顔見知り。私たちと同じく、毎日のように渋谷に集まってくる若者がいたのです。彼らからファッションや流行りの店の情報を仕入れたり、ときには悩みやトラブルの相談を受けたり…。それなりに楽しい日々ではありましたが、目的や目標とは無縁の生活でしたね。当時の私は、今さえ楽しければ良いという短絡的な思考で生きていました。その一方で、「これはマズイ毎日だよなぁ」…と、心のどこかで自覚もしていたのです。テレビをつければ、自分と同年代の若者が全国大会などで活躍している姿が目に入ります。そのたびに、「いったい俺は何をしているのだろう」…と、モヤモヤした感情を抱いたものです。ときにはガソリンスタンドやレストランでアルバイトをしたり、夏の繁忙期には家業の手伝いをしたり。勉強はまったくしなかったので、小・中学生まではわりと良かった成績も、大学     受験を迎える頃には救いようのない状態になっていました(笑)。先生からも、「お前はたとえ二浪しても、大学と名のつく場所にはどこにも行けないな」…なんて言われる始末です。父は相変わらず、「家業を継げば良い」の一点張りでしたが、高卒で家に入るのは私自身が嫌だったのです。結果的に1年間の浪人生活を経て、日大の商学部に進学しました。

大学の友人に感化され、「本の虫」へと生まれ変わる。

大学に入ると、私を取り巻く環境は大きく変わりました。クラスや部活を通じて知り合った友人は、それまで私が付き合ってきた仲間とは明らかに何かが違ったのです。彼らのなかには、いわゆる一流高校の出身者が多くいました。高校時代、渋谷で遊んでいた私とはバックグラウンドが異なるわけです(笑)。「将来はどんな仕事に就きたい?」「今はこれが儲かるらしいよ」…彼らの日常会話といえばこんな調子です。まさか政治の話題が友人同士の間で交わされるなんて、私には大きなカルチャーショックでした。彼らに感化された私は、いつしか読書をするようになりました。当時は落合信彦や長谷川慶太郎など、国際情勢や経済に関する本、司馬遼太郎の歴史小説なども好んで読んでいましたね。また、商学部には会計の講義が多かったので、企業経営や社会の成り立ちについて初めて知り、興味を深めるうえで良い機会になりました。

株式会社デジタリフト 代表取締役 百本 正博さん人生で大切なことをアメフトが教えてくれた。

大学時代を通して、特に人生に影響を与えてくれたのは、4年間アメフトに没頭した経験でしょうか。私にとって昔から憧れのスポーツでしたが、アメフト部のある高校の受験に失敗してから、しばらく機会がなかったのです。入部したのは、体育会のアメフト部(学部の体育会です)。学生主体で運営されている、部員50~60名規模のチームでした。アメフトは、ポジションごとの役割が明確に分かれているスポーツです。各々のプレイヤーの役割が正しく果たされたときに、初めてチームプレーが機能します。アメフトを通じて培った経験は、後に社会人として働くうえで大いに役立ちました。自分が組織においてどんな役割を担っているのか、会社から何を期待されているのか…? 自ら考えて行動する習慣が、新入社員の時点で身についていたからです。また、スポーツチームでも会社組織でも、人が集まるところには必ず嫉妬や軋轢が生じるものです。それでも共通の目的を達成するために、チームが団結に向かえるようなリーダーとしての関わり方を、アメフトのチーム運営を通して学ぶことができました。

まさかの留年で内定取り消し! 広告代理店業界との縁を引き寄せる。

受験はいい加減だった半面、就職活動は頑張りましたよ!当時の私はインフラ系の会社を志望しており、とあるプラント系の上場企業から無事に内定を頂いていました。ところが同年、まさかの留年宣告を受けてしまったのです(笑)。当然ですが、就活もゼロからの仕切り直し。ちなみに当時は現役のアメフト部という事が圧倒的に有利になるような時代でした。しかし、留年が決まった瞬間に、そのチャンスは失われました。さて、改めて就活を始めるうえで、「留年」の二文字が減点にならない業界を選ばなければなりません。業界によっては、入社時だけでなくその後のキャリア形成においても、まだまだ学歴が重視される時代でもありました。もしかして、広告代理店の世界なら、今後の自分の努力次第で活躍できる可能性があるのでは…?学生なりの理解ながら、業界研究や自己分析をしたときに、そう直感したのです。その当時、私の義兄が総合広告代理店で働いていました。正直なところ、当時の私は広告業界に対して、ある種の偏見を持っていました。漠然とではありますが、派手でチャラチャラしているイメージがあったのです(笑)。結果的に、義兄から業界や仕事のリアルを聞いたおかげで、私の先入観は一部の業界人にしか当てはまらないことが解りました。晴れて偏見を払拭できた私は、総合広告代理店の新卒採用に複数社応募した結果、幸運にも大広に入社することができました。

アメフトよりキツかった新人時代の地獄のような日々…。

大広での社会人デビューは、まさに激烈な日々の幕開けでした(笑)。私が入社したのは1995年。当時の総合広告代理店は人気業種であり、会社は大規模な従業員数を抱えていました。私たち新入社員はそのような環境へ、意気揚々と飛び込んでいったわけです。入社後すぐに待ち構えていたのは、先輩社員による厳しい指導でした。まずは加入儀礼的に、鼻っ柱を折られるところからのスタートでした。当時は新入社員数も多く、人員はいつでも代替可能と言えるような状態でした。新人とはいえ、いかに早くパフォーマンスを上げて組織に貢献できるのか、入社当初から厳しく問われていたのです。しかも、私は社内で最大の売上利益を誇るチームに     5年ぶりの新人として配属されました。その環境の厳しさは、ご想像いただけると思います…(笑)。配属当初から膨大な業務量に追われ、とにかく仕事が終わらないのです。加えて精神的なプレッシャーは、アメフト時代のそれを超えていました。いつものように終電で帰る際にふと、「このまま線路に飛び込めばラクになれるかな」…なんてバカな考えが浮かんだ瞬間が数え切れないほどありました。冗談抜きで、それほど追い詰められていたのです。激烈な新人時代を乗り越えたおかげで、もはや大抵のことでは怯むことのない強靭なメンタルを鍛えていただきました。今となっては当時の経験に感謝しています(笑)。

株式会社デジタリフト 代表取締役 百本 正博さん現職に繋がるベースを培った、総合広告代理店での10年間。

大広の営業局にいた10年間で、総合流通業、通信事業、メガバンク、自動車メーカー、総合飲料メーカー、信託銀行など、多岐にわたる業界のクライアントを任せていただきました。幸運にも、世間に広く知られるような大規模案件を手がける機会も多く、やり甲斐や手応えを感じられる充実した日々でした。

仕事を通じて、クライアントのビジネスモデルやコンセプト、経営理念などに触れるなかで、家業のことが脳裏に浮かぶ瞬間が何度もありました。もともと私が就職の道を選んだのは、家業から逃れたいという動機が根底にあったからです。時を経て、それなりに社会人経験を積んだ自分が、改めて父の会社を客観視したときに感じたこと。それは、会社として何のコンセプトもなければ今後のビジョンもない…という冷たい現実でした。それでいて、「業界の動向はしんどいけど、将来はよろしく!」…なんて無理やり息子に押しつけるのはあんまりだよなぁ…と(笑)。一方で、私自身が父の価値観に少なからず縛られていることも自覚していました。かつて就職の報告をした際に、父から云われた言葉。一生「勤め人」で終わるのか、いずれは自ら闘いに行くのか…。もちろん物事の価値基準はそれだけではありませんが、父の認識のなかで「勝負をしなかった奴」というレッテルを貼られるのは、私にとっては耐え難いことだったのです。

将来的な独立を意識する一方で、目の前の仕事には全力で取り組んでいました。30代に入ってまもなく、私は大きな節目を迎えることになります。とある大規模コンペのプレゼンで、私が率いるチームが受注を勝ち取ったときのことです。営業責任者だった私は、社内各所のスター選手を口説いてチームを構成し、狙い通りの案件化に成功しました。私はそのとき、勝利の歓びを噛みしめると同時に、今の仕事を続けた先に、この成功を超えるほどの経験はもうないであろうことを感覚的に悟ったのです。広告代理店の営業は、社内外にどれだけ強い人脈を抱えているか、適材適所のメンバーを巻き込み、いかにインパクトの大きな提案ができるかで勝負が決まるというような側面があります。営業としての手腕はもちろん重要ですが、成功するか否かは、そのときのタイミングや運が占める割合が非常に大きいのです。しかも、自分が一度に抱えられる案件は内容にもよりますがせいぜい2~3件が限界です。何かチャンスがあれば、新たな道に進むべきタイミングかもしれない…。代理店営業としての自分の天井が見えてしまったこと。それが、自分のなかで温めてきた「独立」への想いが機を熟した瞬間でした。

2012年、満を持して創業を決意する。

大広を退職したのは、とある先輩から起業のお誘いを受けたのがきっかけでした。サラブレッドの輸入・販売・育成に関わるビジネスを立ち上げるとのことで、私としてはまったくの異分野への挑戦でした。その先輩が業界で通用する専門性を有していたこと、ニッチなビジネス領域に興味が持てたことから参画を決めました。それと同時に、私の退職を知った友人から、新たな仕事の依頼もありました。総合広告代理店の業務を通じて培ってきた私の企業ブランディングの知識や経験は、当時の大手インターネット広告代理店やITスタートアップの現場において需要があったのです。彼らに対するコンサルティング業務(ブランド戦略立案、新規サービス開発、営業コーチングなど)を担うなかで、私はデジタルマーケティング業界の現状に課題意識を持つようになりました。それは、市場の成長性に対して、本質的なソリューションを提供できる人材が極端に不足していることでした。当時はまだ、インターネット広告業界にいる人材の企業ブランディングに対する理解が、総合広告代理店のそれに追いついていないフェーズにありました。それも当然のことで、当時はインターネット広告業界自体が黎明期にあり、総合広告代理店とは異なるキャリアや文化を持った人材で形成されていたのです。そこから数年を経て徐々に融合されていくのですが、当時はまだ、両者の間に考え方や仕事の進め方の違いがありました。業界の間に存在するギャップや分断された構造が本質的な課題解決を阻み、クライアントに不利益をもたらしているのではないか…?それを解決するには、デジタルと非デジタルの双方をつなげる存在が必要なのではないか…?自分が培ってきた総合広告代理店での経験と、インターネット広告代理店のサポート等を通じて得たデジタルマーケティングの知見を掛け合わせれば、お客様のお役に立てるかもしれない…。そんなことを考えていた矢先の2010年、DSP(Demand Side Platform)と呼ばれる広告配信技術が生まれました。当時はまさに黎明期でしたが、私には大きな可能性の光が見えたのです。この技術を活用することで、私が感じてきた顧客のマーケティングに関する課題を解決できると確信し、デジタルマーケティング領域での創業を決意しました。

創業から上場まで、これまでの軌跡。

しばらくマーケティング領域を離れた期間があったことで、改めて思うことがありました。それは、メッセージを届けて、人の行動を喚起することの喜びは、自分にとって他には代え難いものであるという実感でした。起業したのは、「自分はこの業界で生きていくんだ」という決意の表れだったと思います。

創業してから今日に至るまで、基本的には課題だらけです(笑)。たとえば事業立ち上げ当初は、とにかく営業に苦労しました。会社員時代のように大企業の肩書は使えませんし、当時の私は広告業界に7年間のブランクがあったのです。まずは訪問先を探すために、1日200件近くのテレアポをしていました。ちなみに弊社のクライアント第1号は、過去に私の営業コーチングを受講してくれた後輩でした。会社員だった彼も再会時には独立して数年が経ち、立派な経営者になっていたのです。「百本さんにはメールの書き方や名刺の渡し方など、基礎から教えていただいた恩がありますから」…と、二つ返事で発注してくれました。あのときは、涙が出るほど嬉しかったですね。

私が創業した2012年は、いわゆるデジタルマーケティングの黎明期でした。当時はマーケットの急成長を見込んで、大量採用を行うアグレッシブな企業群が業界にひしめいていました。一方の私は創業後しばらくの間、数名の社員のみで経営を続けていました。資金が一瞬にして消えゆく世界を過去にたくさん見てきたので、投資についてはかなり慎重だったのです。組織拡大に向けて一気にアクセルを踏んだのは、2016年に株式会社フリークアウト・ホールディングスの連結子会社になったタイミングでした。上場企業の傘下に入ることで安定的なリード獲得が見込める条件が整ってこそ、成長スピードを一気に加速できると考えました。そのとき初めて約30名の増員を行い、それに伴う組織の揺らぎを経験しながら、数年を経てようやく大規模な案件を受注できる体制が整っていきました。2021年の上場を機に、弊社は株式会社フリークアウト・ホールディングスの非連結子会社となりましたが、現在も主要な株主として良好な関係を築いています。

株式会社デジタリフト 代表取締役 百本 正博さん創業者として描く、将来のビジョン。

まずは弊社が掲げるCdMO(デジタル領域に精通したマーケティングのプロ)としての価値を、今後もストイックに磨き続けてまいります。創業当初から、常にマーケティングプロセスの全体を俯瞰し、顧客の経営課題を共に解決するパートナーを目指して歩んできました。デジタルと非デジタルの垣根を超えたマーケティングの最適解を愚直なまでに追求していくスタンスこそが、総合広告代理店出身の私がデジタル領域の専門家として起業した価値であり、広告主とエンドユーザーの双方の利益を最大化していくための原点であると考えております。我々の主たる事業は広告運用ですが、クライアントに対して、運用に至る以前の段階(マーケティング戦略の設計)から常にコミットしてきました。創業当初から、クライアントの事業を成長させることに本気で向き合ってきたので、その泥臭さと当事者意識、成果には絶対的な自信があります。

中長期的にはスタートアップ支援やM&Aに積極的に取り組むことで、企業規模の拡大を目指していきます。2021年に上場したことで、企業買収や資金調達を行いやすい環境が整いました。いずれの目的も、会社の成長スピードを加速させ、グループ会社の役員の輩出をはじめ、社員の活躍先を増やすことにあります。縁あって弊社を選んでくれた社員が、「デジタリフトに入社して良かった」と思えるような会社にしていかなければなりませんね。また、社員への権限移譲については、現時点でかなり意識しています。創業者の私がいつまでも居座り続けるのは、会社にとって健全なことではないですからね。弊社のコーポレートロゴには、「飛躍」や「前進」の意味を込め、鳥のモチーフを使用しています。青や緑をベースに複数の色を用いた理由は、社員一人ひとりの多様な考え方を尊重し、個性の掛け算によって組織が成長していくイメージを表現したかったからです。今後は社員の成長や活躍できる環境づくりに、特に注力していきたいと考えております。

 

◆ 編集後記 ◆

西麻布に本社オフィスを構える株式会社デジタリフト。エントランスに入った瞬間、部屋の中央に設置されたテーブルサッカーが視界に飛び込んできた。遊び心あふれる、明るく開放的な空間が印象的だ。ちなみに各所に配されたグリーンや熱帯魚の水槽は、百本社長のオフィス環境に対する“こだわり”だとか。同社で働く社員の方々は、日常的に細かい数字やデータを扱うため、PC画面に向き合う時間が長くなりがちだ。確かに仕事で煮詰まったとき、植物や生き物の姿が目に入れば、癒しやリフレッシュ効果が得られそうだ。
さて、百本社長の第一印象は、とにかく背が高い…!さすがは元アメフト部といった迫力のある体格と、そのダンディーな声とは裏腹に、物腰は非常に柔らかく、インタビュー冒頭から軽快なトークで我々を和ませてくれた。非常に印象的だったのは、立場や年齢の垣根を感じさせないフラットなコミュニケーションが社内に浸透している様子だ。取材には広報担当の女性も同席されたが、インタビューの間も百本氏と冗談を交わし合ったり、社長が言葉に詰まった際にはすぐさま助け船を出したり…。上下関係などに囚われない日頃からの自然なコミュニケーションの様子が垣間見えた。「弊社には、百本に惚れて入社してくる人も多いんですよ!」…と、輝く笑顔で語る彼女の存在こそが、同社で働く魅力を見事に広報していると感じた。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2023年7月3日