ブランド品の買取・販売、オークション事業を手がける株式会社ダイヤコーポレーション(本社:東京都渋谷区)。同社は2009年、業界初のレストランにおける古物市場を始めた企業だ。お客様への「おもてなし」を追求し、最上のホスピタリティを提供するレストランの発想を見事に取り入れ、日本最大級の専門オークション『タイムレスオークション』へと進化を遂げた。イノベーティブな発想と行動力で、新たな市場を次々に創造してきた太田社長だが、本インタビューでは過去の失敗談や葛藤の経験まで、赤裸々に語ってくださった。決して諦めることを知らない彼のストーリーは、読者の皆様に大きな勇気を与えてくれるだろう。
日本最大級のオークション運営により、ブランド品の圧倒的な高額買取を実現。
弊社は『TIMELESS(タイムレス)』という共通ブランドにて、店舗型の中古品買取・販売事業、EC事業、業者様向けのオークション事業を展開しています。扱っているのは、主にバッグや時計、貴金属、アパレル等のブランド品です。業界で初めて、業者様とのお取引を完全オークションスタイルへと転換し、創業時より実績を重ねてきた結果、おかげさまで日本最大級のオークションへと成長することができました。弊社の強みは、ブランド品をどこよりも高く買い取れること。高額買取が可能な理由は、専門オークションの主催・運営を通じて、世界各国の買取・販売業者様への販路を築いてきた弊社だからこそ。現在の取引実績は年間11ヶ国、約28万点。取引品目も年間約20万点と幅広く、日本最大級の流通を実現しています。
海外市場のさらなる拡大を見据えて、アジアに現地法人を設立。
リユース事業、特にブランドリサイクル事業は今、飛躍的に成長しているビジネスです。特にこの数年は海外市場の拡大が著しく、中華圏を中心に、タイ、フィリピン、アメリカなどに、国内のブランド品や高級品が続々と輸出されています。弊社のオークションの来場者も、昨今は半数が外国人のお客様です。日本に比べて、〝中古品〟に対する抵抗感が根強くあった海外でも、リサイクル・リユースの文化が、この1~2年の間で急激に浸透し始めたのです。この流れをチャンスと捉え、弊社は香港、韓国、シンガポールに法人を設立。韓国ではカンナム地区に、シンガポールではマリーナ地区のショッピングセンター『サンテック・シティ・モール』に実店舗も構えています。
ちなみにシンガポールでは、ブランド品の〝買取〟に対して、まだまだ人々の心理的ハードルが高いという現状があります。自分の持ち物を換金することで、お金に困っていると思われたくないという、シンガポール特有の事情があるのです。とはいえ、エコや経済的な観点からも、リユース・リサイクルへの理解は、ますます世界に拡がっていくでしょう。新たな文化の浸透には時間を要しますが、今は来るべきときに向け現地に根を張り、着々と種まきをしている段階です。
今年で設立11期目となる弊社には、新たなマーケットの創造に関して、いくつか成功体験があります。たとえば、今では当たり前のように若い女性に認知されている『ヴィンテージ・シャネル』『ヴィンテージ・ヴィトン』というカテゴリーは、実は10年ほど前に、我々が初めて売り出したものです。当時は日本人もまだ、中古品に対する抵抗感が強い時代。クルマやマンション、時計についてはヴィンテージの価値が認められていて、中古品が普通に流通していたのに対し、バッグや財布だけは〝中古品〟というだけで、なかなか世間に受け入れられなかったのです。そこに目をつけ、〝ヴィンテージ〟という付加価値をつけて売り出したのが、我々のヴィンテージショップ『TIMELESS TOKYO(タイムレス・トーキョー)』でした。クルマや時計と同じく、ブランドバッグにも、昔の名作や人気のある型が存在します。それらは店頭に並ぶ新作とは異なり、簡単には手に入らない希少価値の高いモノ。結果的に、ファッション感度の高い芸能人やモデルのSNSで続々と紹介され、ラグジュアリーブランドのヴィンテージが手に入る店舗として、一気に注目が集まりました。ブランドバッグの中古品に対するイメージの転換に成功した弊社は、新たなリユース市場の拡大と共に、大きく成長を遂げたのです。この経験があるからこそ、海外における同様の価値観の転換期を見据えて、着々と準備を進めているのです。
総合買取サロンを百貨店専門で展開し、路面店との差別化を実現。
また、弊社独自の業態として、総合買取サロン『TIMELESS(タイムレス)』の店舗展開があります。特徴は、百貨店のなかに出店していること。従来の店頭買取といえば路面店が一般的ですが、大手と同じマーケットで戦っても、なかなか勝てないという現実がありました。では、どこで差別化を図るべきかと真剣に悩んだ結果、百貨店への出店に活路を見出したのです。その理由は、買取店をテナントに導入することが、百貨店の課題解決にも繋がること。百貨店は今、顧客層が高齢化しており、消費意欲が停滞傾向にあることが課題となっています。その原因として、過去に購入した商品を自宅に溜め込んでしまい、新たな消費に結びつかないことが挙げられました。一方で、百貨店のお客様も、買取ショップの存在は知っていても、利用した経験もなければ、なんとなく不安なイメージを抱えていることが分かったのです。もしも百貨店のなかに、サロン型の信頼できる買取店があれば、お客様は安心して足を運ぶことができ、所持品の買取相談が可能になります。古いモノを手放すことで新たな消費の循環が起これば、百貨店の課題解決にも繋がるはずです。これは、関係者すべてにとって、必ず価値あるビジネスになる!勝算は十分にあったものの、買取店の導入は百貨店業界に前例がなく、実際は非常に敷居の高いチャレンジでした。度重なるプレゼンの末、『TIMELESS TOKYO』がテナントとして入っていた東急グループの百貨店様に熱意を採用いただき、第1号店を東急百貨店吉祥寺店にオープン。現在は、東急百貨店渋谷本店、名鉄百貨店一宮店、名鉄百貨店名古屋本店に、全4店舗を常設させていただいています。来店されるのは主に、百貨店が抱える外商のお客様をはじめ、シニア層のVIP、そのご子息様など。貴金属やブランドバック、時計に加え、金券や骨董品、美術品など、買取品目のバリエーションには、富裕層を顧客とする百貨店内ならではの特徴があります。サロンスタッフによる誠実な対面接客が好評をいただき、おかげさまでご紹介によるお客様が増加しています。
創造性が育まれた、自由で楽しかった小学生時代。
幼い頃の記憶にあるのは、弟や友達と遊んだ楽しい日々のこと。育った環境が少し特殊で、広い私有地に20軒ほどの世帯が集まり、各家庭に同世代の子どもがいるような場所でした。まさに、家族ぐるみの付き合い。どの家も鍵を開けっ放しで、出入りも自由。友達の家でご飯をご馳走になったり、お風呂に入れてもらったり。ときには一人のお父さんに、大勢の子どもたちが遊びに連れて行ってもらったり。楽しいことは、皆で分かち合うのが当たり前の環境でした。ちなみに小学校6年生のとき、私は町田の小学校へ転校しています。これまで過ごした友達と離れるのは寂しかったのですが、転校先の小学校でも友達に恵まれ、すっかり楽しく過ごしていました(笑)。
小学生時代は、いわゆる目立ちたがり屋タイプ。自分で考えた企画で仲間をその気にさせ、実現させることが好きでした。もちろん良いこともあれば、先生へのイタズラを企てるなど、やんちゃな側面もありました。思い出深いエピソードは、学校が決めた遠足の行き先を、皆の意見で変更させたこと。クラスのメンバーのほとんどが既に行ったことのある場所だったので、自分たちの行きたい場所を先生に直談判したのです。あとは、『CHAGE and ASKA』の『YAH YAH YAH』を朝礼で歌うことを決めたり、放課後は校庭に残ってはいけないというルールが納得できず変えてもらったり(笑)。いま考えると、非常に柔軟で面白い小学校だったと思います。生徒みんなでアイデアを出し合い、いろんなことを決めて活動していました。当時の友達とは、今でも付き合いが続いています。
両親の離婚を機に、それまでの生活が一変。
母の意向で受験をして、私立の中学へ進みました。その当時、家庭で私のワガママを許し続けてきた母は、中学生活で私が悪い方向に進んでしまうことを恐れたようでした。しかし、皮肉なことに受験が終わった途端、私は反抗期に突入。部活もせずに、放課後は友達と街を彷徨い、遅くまで帰らない日が続きました。中学・高校を通して、母には随分と心配をかけたと思います。そんなある日、私たち家族の人生が一変する出来事が起こりました。突然、家に借金取りが現れ、父親が多額の負債を抱えていたことが発覚したのです。それまでは、特に何不自由ない生活を送ってきました。一般的な家庭と違っていたのは、父が日頃から家を不在にしていたこと。とはいえ、私は中学から私立に通わせてもらっていたし、わりと裕福な家庭に生まれたと認識していたのです。両親は離婚し、私は奨学金で大学へ進学。母、そして6歳下の弟と共に、それまで暮らしていた一軒家から1DKの古びたアパートに移り、親子3人での生活が始まりました。
一家の大黒柱として、母と弟を支えると誓う。
大学時代は、自分の学費と家族の生活費を工面するため、ひたすらバイトに明け暮れる日々。勉強したり遊びに行ったり、学生生活を満喫する余裕は一切ありません。もともと父が家にいなかったこともあり、弟に対しては、自分が父親のような気持ちでいました。物心ついた頃からボールを蹴っていた弟は、中学1年生の頃には全国でも有名なサッカー選手として頭角を現すようになります。弟を成功させると決めた私は、彼の全国遠征などの費用を稼ぐため、必死に働きました。一方で、それまで専業主婦として生きてきた母も、私たち2人を支えるため、パートの仕事を開始。しかし、慣れない職場で女性陣からイジメを受けたのか、夜中に隠れて泣いているのを見てしまったのです。
「この状況から一刻も早く抜け出さなければ…!」居ても立ってもいられなくなった私は、このとき固く決意しました。近い将来、母に必ず楽な生活をさせると誓ったのです。当時はどんなに働いても、まったく手元にお金が残らない状態。深夜のコンビニ、建設現場、飲食、宝石や毛皮の営業など、時給の高い仕事なら、昼夜を問わず何でもやりました。やっとの想いで月に20万円ほど稼いでも、学費と生活費、弟のサッカーの費用に消え、財布に残るのは常に500円ほど…。周囲の友達が学生生活を満喫している姿を横目に、とにかく家族を支えなければと、強い責任感が私を駆り立てていました。当時の思い出としてよく覚えているのは、クリスマスイブの夜に、彼女とリンガーハットで1杯の長崎ちゃんぽんを2人で食べたこと。私の状況を理解してくれていた彼女とはいえ、クリスマスの夜にそれしかできないほど、本当にお金がなかったのです。
起業を志した理由と、リユース業界との出逢い。
母親孝行がしたい、弟を成功させたい、何とかして現状の生活を抜け出したい!そんな一心から、将来は経営者になると決めていました。理由は単純。いわゆる〝お金持ち〟になるための手段が、社長になること以外に思い当たらなかったのです。また、お金を稼ぐには、実際に富裕層に接する仕事を勉強すべきだとも考えていました。では、お金持ちが集まるところとは、いったい何処だろう…? そんな視点で世の中を眺めていた大学3年生のとき、住んでいた町田市の百貨店にある外商部サロンが目に留まりました。その当時、「外商部」が何を意味するのかさえ知りませんでしたが、どうやら富裕層が集まる場所らしいのです。そこで私が選んだ行動は、外商部への突撃訪問でした(笑)飛び込みの学生など前例がなかったようで、当時の外商部長さんが私に興味を持ってくださり、外商の役割や仕事について丁寧に教えてくださいました。ついには社長面接まで進み、内定をいただいたのです。大変ありがたい機会だったのですが、最終的には別の道を進むことになります。就職セミナーなどに引き続き参加する過程で、リユース業界の大手企業に出逢ったのです。創業会長が私の話を聞いてくださり、リユース業界の将来性を熱く語ってくださいました。富裕層に出逢えること、将来の独立に繋がること、成長産業であることなど、求めるものが見事に揃っていると感じ、入社を決めました。
新入社員時代。営業未経験で単身大阪に乗り込み、マーケット開拓に成功!
入社後すぐに、23歳でマンションを購入しました。狭くて日当たりの悪いアパートから、一刻も早く母と弟を出してあげたかったので、自分が会社員でいるうちにローンを組んだのです。それを機に、独立に向けた勝負をすると決め、入社半年後に単身で大阪へ。関西圏におけるリユースブランド品の流通経路の開拓を担うべく、社内公募で手を挙げたのです。最初の1年間は、とにかく苦戦しました。地元の商習慣も知らず、標準語しか話せない若造だった私は、大阪では誰ひとり相手にしてくれません。あるとき西成区の質屋さんに飛び込み営業をして、突然お茶をかけられたこともありました。後々わかったのですが、地元の有名な老舗のお偉方に、立場もわきまえず営業してしまったのです。数々の失敗を経て、それでも死に物狂いの営業を重ねた結果、1年後には多くのオファーをいただけるようになり、新天地でのマーケット開拓に成功しました。
会社員生活2年間ほどは、昼食もとらずに働き通しました。ほとんど営業未経験の状態で大阪へ行った頃は、まさに手探りの日々。手本を見せてくれる先輩もいなかったので、「相手の目を見て話す」など、営業としての初歩的な姿勢から、メモに記して覚えたほどです。なんとか成果を上げるため、お客様からお叱りを受けた理由や日付、話した内容などを、顧客ノートに細かく記録します。商談はすべて録音することで、営業トークの分析・改善を重ねました。その結果、次第に成約に繋げるための法則が見えてきたのです。入社1年後には圧倒的な営業成績を残し、副課長に昇格。通常は4~5年かけて得られるポストと言われていたので、異例の昇進でした。失敗の量も人一倍の私でしたが、「ここで独立する力を身につけ、母と弟を支える」という明確な目的があったので、成果に対する執着心と成長意欲は、誰よりも強かったのだと思います。
満を持して独立!増収増益が続き、かつて描いた夢の生活へ…。
25歳のとき、そのまま大阪で起業しました。いわゆる行商スタイルの無店舗営業で、質屋やリサイクルショップから商品を仕入れ、リユース品の販売を行っていました。当時の商習慣として、我々のような事業者が仕入れを行う際には、出された商品をすべて買うのが通例でした。当然ですが、なかには売りにくい商品も混在します。質屋同士の場合なら、地元の商品交換会を通じて在庫リスクを回避できるのですが、後続の事業者である我々に、そのような機会はありません。それなら、同じ課題を抱えた事業者向けのオークションを主催すれば、課題を解決できるのでは…?売り先のない商品に頭を悩ませてきた私は、一つの仮説に至りました。結果的に、このアイデアには狙い通りのニーズが存在し、先駆者だった我々のオークション事業は、大きく成長したのです。
会社は毎月増収増益。初年度から売上5億円を達成しました。当時20代だった私には、まるで夢のような日々です。そんなある日、我々のもとへ、突然M&Aの話が舞い込んできました。相手方は、東京にある売上10億円規模の同業者。私はすぐに話に乗り、新たな会社の社長として、さらなる拡大路線を走りました。約1年で、売上は30億円へと急成長。店舗展開を押し進め、従業員も100名規模へと拡大していきました。当時の私は26歳。横浜駅前の家賃60万円のタワーマンションに住み、かつて夢に描いたような順風満帆の生活を送っていました。
想定外の大挫折。一瞬にして、すべてを失った日。
「このまま行けば、売上100億円も夢じゃない!」…そう意気込んでいた私を、青天の霹靂が襲います。ある日突然、会社のオーナーからクビを宣告されたのです。後に判ったことですが、社長就任時に私が取得したはずの自社株は、どこにも存在しませんでした。会社を大きくしようと必死で走ってきた私は、無知がゆえに最初から騙されていたのです。このときほど、自分の愚かさと不勉強を憎んだ経験はありません。何よりショックだったのは、私を慕って入社してくれた仲間が全員、事実を知ったうえで、会社に残る選択をしたことでした。今の私なら、彼らの気持ちも理解できます。ゼロからの再スタート、しかも成功の確約もない私と共に歩むより、そのまま会社に残るほうが現実的な選択だったはずです。しかし、当時はその事実があまりにもショックで、全身の力が抜けてしまうほど落胆しました。自分はいったい、何のために頑張ってきたのだろう…?ちょっとお金を稼いだくらいで調子に乗って、とんでもない勘違いをしていたのだ…。1週間ほど誰にも逢わずに家に籠り、驕っていた自分を猛省しました。
人生で最も辛かった時代。強烈な屈辱感をバネに、再び起業する。
落ち込んでいたとはいえ、そう長く引きこもっている余裕はありませんでした。なぜなら私の銀行預金は、30万円しか残高がなかったのです。毎月の報酬は、税引後に会社の金庫に保管されていました。そのお金も、会社を追い出されたのと同時に、全額お蔵入りになってしまったのです(笑)口座に30万円しかないくせに、家賃は60万円。急いで解約しても、3ヵ月間は支払いが生じます。今だから笑える話なのですが、高層階に住んでいた私は、自宅マンション1階のコンビニで、家賃を稼ぐために3か月間バイトをしたのです(笑)27歳のときの出来事でした。
会社をクビになったあと、2009年に一人で立ち上げたのが現在のダイヤコーポレーションです。それまで築いてきたオークション事業も丸ごと失ってしまったため、ゼロから立ち上げるしかありません。屈辱感を味わった分、これまで以上のオークションを必ず築いて見せると、自らを奮い立たせて取り組みました。その成果は、日本最大級の専門オークション『タイムレスオークション』へと成長したことで実を結んでいます。再起のときに誓ったのは、働く仲間を大切にする経営者になること。人生のなかで、仕事が多くの割合を占めるからには、一生ついて行きたいと思われるような経営者でありたい。そして、一生この会社で働きたいと思われるような環境を提供したい…。決して簡単なことではありませんが、理想は常に追求したいのです。創業から11期目を迎えた今、多くの素晴らしい仲間が集まってくれたことに、心から感謝しています。
2019年2月、弊社は創業10周年記念パーティーを開催。メンバーのご家族にも積極的にお声がけし、たくさんご参加いただきました。社員のご両親にお目にかかり、ご子息様・ご令嬢様の活躍ぶりや日頃の感謝をお伝えすると、皆さん心から大喜び。それを見たスタッフのモチベーションもさらに上がり、思わず嬉しくなったものです。私が実現したかったのは、社員が楽しく仕事に取組み、未来を見据えて安心して働ける環境を創ること。それが叶ったことを実感できた、幸せな一日でした。以前にも増して、社員に長く働いて欲しいという想いは、私のなかで強くなりました。結婚しても出産しても仕事が続けられる、働きやすい環境を提供したい。起業を志すメンバーがいれば、会社が支援するので引き続き共に挑戦して行きたい。弊社に残って欲しいという想いから、独立よりもリスクが低いことをアピールしていたら、最近では「独立」という言葉を誰も口にしなくなりましたが…(笑)。
太田社長が描く、ダイヤコーポレーションの未来。
リユース事業を主軸にしてきた弊社ですが、何か面白いアイデアがあれば、業界問わずチャレンジすべきだと考えています。一つこだわっているのは、女性をターゲットとした事業に特化すること。弊社サービスの既存顧客の多くは女性が占めており、その軸だけは徹底したいと考えているのです。新規に始めたコスメ事業もその一つ。現在、月間1億円弱と、順調に売上を伸ばしています。
弊社の企業理念の一つに、『ニューベーシック』という造語があります。それまで常識とされてきた物事を疑い、塗り替えることで、世の中に新たな常識を生み出していく…。この言葉は、我々が大切にしてきた、事業に対するスタンスを示しています。かつてはリユース業界の常識を、〝オークション〟という切り口で大きく塗り替えてきました。一方で『メルカリ』も、私たちリユース業界のタブーを華麗にスルーし、「CtoC」という最短距離のマーケットを創り上げました。同様のイノベーションの余地は、美容業界にも確実に存在しています。業界のアキレス腱は、新規参入者の我々だからこそ見えることも多いし、大手が参入しないマーケットを席巻する戦略もあるでしょう。社内では今、新たなプロジェクトが続々と生まれており、私自身もその将来性に今からワクワクしています。弊社の今後の躍進に、ぜひともご期待ください。
◆ 編集後記 ◆
ダイヤモンドのように輝く人になって欲しい…。太田社長の名前である『大哉(だいや)』には、そんな願いが込められているそうだ。彼は旧態依然とした業界にイノベーティブな発想を次々と取り入れ、リユース業界において、その名の通り唯一無二の輝きを放つ存在となった。
一方で、乗り越えて来た困難と挫折の大きさは、もはや並大抵ではない。すべてを賭けて自ら拡大してきた会社を突然クビになり、築いたものをすべて失ったとしたら、彼と同じく再起できる人がどれほど居るだろうか。尊敬すべきは、怒りの矛先を裏切った相手に向けるのではなく、前進するエネルギーへと見事に転換したことだ。また、話の端々に感じられたのが、ご家族に対する愛情と絆の深さである。家族を必死で支えていた学生の頃、彼の原体験となったエピソードを伺った。当時20歳の大哉さん、14歳の弟・宏介さん、お母様の3人は、古びた狭いアパートで手を取り合い、成功を誓い合った夜があったそうだ。「このままの生活じゃダメだ。この状況を、皆で絶対に抜け出そう…!」固い決意を胸に、兄弟は各々の環境で力を尽くした。時を経て、兄は実業家として成功し、弟はサッカー選手として日本代表の座を掴んだ。お互い多忙な日々を送る今も一緒に出掛けるなど、非常に仲の良い兄弟のようだ。
生きていれば、辛いこと、理不尽なこと、いろいろあるだろう。しかし、何が起きても希望を忘れず、諦めずに未来を切り拓いてきた太田社長の生き方に触れると、背筋が伸びる想いがする。業界の枠を超え、新たなイノベーションに挑む彼は、これからどんな世界を見せてくれるのだろうか。今から非常に楽しみである。
取材:四分一 武 / 文:アラミホ
メールマガジン配信日: 2020年1月27日