株式会社エッジコネクション(本社:東京都品川区西五反田)は、B to Bの事業課題総合サポート企業である。2007年の創業より1400社以上の企業を支援し、営業マーケティングから財務、人事に関する課題解決にわたるまで、顧客の要望に応える形でコンサルティング領域を拡大してきた。現在、8期連続増収、13期連続黒字経営を実現しており、2015年には宮崎、2023年には福岡に支社を開設。右肩上がりの成長を続ける注目の企業である。同社の創業者である大村氏は、学生ベンチャー時代を含めて約20年に及ぶ起業家経験を持つ。ご自身の経験、多数のコンサルティングを通じて培った経営に関する知見やノウハウを共有するメディアやセミナーが今や好評の彼だが、過去には人一倍の失敗を経験してきたそうだ。本稿では、知られざる大村氏の生い立ちや創業ストーリーにまで遡り、同社の成長の原動力を探っていきたい。

株式会社エッジコネクション 代表取締役 大村 康雄さん8期連続増収、13期連続黒字達成!いま注目の成長企業。

弊社は企業様に対して、営業支援およびコンサルティングサービスを提供している会社です。2007年にテレマーケティング事業で創業し、営業コンサルティング、ファイナンシャルサポート、M&A仲介事業など、事業領域を徐々に拡大させてきました。直近では人材紹介免許を取得し、「営業マーケティング」「財務」「人事」の三本柱でコンサルティングサービスを提供できる体制が整いました。創業より1400社以上の企業を支援してきた実績から、弊社には売上アップをはじめ、企業が成長プロセスに入るための平準化されたノウハウが蓄積されています。今では企業規模や業種を問わず、社長や事業責任者のあらゆるお悩みにお応えする「営業・人事・財務課題 伴走型支援」が事業内容となっています。これまでお取引をいただいた企業様の90%以上が売上アップや残業削減を実現しており、創業前後の企業様においては80%以上が初年度黒字を達成しています。現在、継続取引による売上は80%前後を推移しており、おかげさまでサービス品質には高評をいただいています。

大村社長の生い立ちストーリー。

生まれは宮崎県延岡市、辛麺(からめん)とチキン南蛮発祥の地として知られる、宮崎県北部に位置する地域です。長男として生まれた私には、2人の妹がいます。母はかつて市立図書館の司書をしており、父は現在、住職を継いでいます(私が実家にいた頃は祖父が住職を担っていました)。両親の教育方針は、どちらかと言えば放任主義。幼い頃から、親に「勉強しなさい」と言われた記憶はありません。母は無類の読書好きで、自分の夢だった司書を仕事にした人でした。その影響もあり、幼い頃から活字には親しんでいましたね。小学生時代には、那須正幹原作の児童文学シリーズ『ズッコケ三人組』をよく読んでいた記憶があります。

楽しいことよりも、辛いことのほうが多かった少年時代の記憶。

1993年、私が小学5年生のときにJリーグが開幕し、地元でもサッカーが人気を集めていました。私も中学時代はサッカー部に入り、部活漬けの毎日を過ごしていました。練習はかなり厳しく、夏休みもお盆の3日間以外は部活でしたね。正直なところ、幼少期から中学時代にかけては、どちらかと言うと辛かった経験のほうが色濃く記憶に残っています。ときに目立つこともあった一方で、周囲にからかわれることも多かったのです。子ども時代は特に、身体的な特徴をイジられることってありますよね。私の顔の右側にある大きなホクロも、その対象になりがちでした。ただ、かろうじて勉強はできるほうだったので、そこまで攻撃されることはありませんでした。クラスや部活での人間関係には悩んでいましたが、自分なりのささやかな抵抗として、勉強だけは意地でも負けるわけにはいかなかったのです。

高校卒業後は、地元を出ると心に決めていた。

中学時代に経験した練習のキツさへの反動や人間関係の煩わしさもあり、高校時代は帰宅部になりました。当時の記憶は薄いのですが、アコースティックギターを弾いたり、ゲームに興じたり、友達の家で麻雀をしたり…そんな生活だったと思います。高校2年生の3学期になると、一気に受験モードに切り替わりました。私が通っていた県立延岡高校は進学校とはいえ、当時は受験対策が充実した環境ではありませんでした。高校3年生の期末になって、ようやく受験範囲のカリキュラムが終わるようなスケジュールだったのです。一方の私には、大学進学を機に地元を出るという明確な目標がありました。過去の学校生活で味わった鬱々とした感情が、私を早くから受験勉強に駆り立てたのです。高校卒業後も地元に残るようなことになれば、またアイツらと顔を合わせて生きていくことになる…。そしたら人生、何も楽しくないじゃん!(今となっては私自身のパーソナリティにも原因があったことは理解していますが、当時はまだ多感な時期でもあり、そのような考えには至らなかったのです。現在は彼らとの人間関係も良好なものになりました)

悲願の志望大学合格!死に物狂いで勉強した受験生活。

地元を出るなら、それなりの大学でなければ親が学費を出してくれないことはわかっていました。そこで私が目指したのが慶応義塾大学です。高校2年生の夏休みにオープンキャンパスに訪れた際に、三田キャンパスを歩く学生たちがキラキラ輝いて見えたのです。この人たち、こんなにオシャレで楽しそうで、かつ頭も良いんだよな。腹立つなぁ…と(笑)。必ず自分も慶応生になるのだと、そのとき強く誓ったのです。そこからは、狂ったように勉強しました。当時は地元に学習塾がなかったので、進研ゼミを通じて独学で進めるしか方法はありませんでした。私の受験生活は、まさにロボットのような毎日でした。平日の放課後は市立図書館に直行し、閉館時間の19:00まで勉強。帰宅後は20:30まで仮眠して、30分で食事と入浴を済ませます。そして21:00~2:00まで勉強、約4時間の睡眠で翌朝を迎えるのです。休日はもちろん、市立図書館で終日勉強していました。当時はもう、精神・体力ともに追い詰められていました。もしも受験に失敗したら、こんな過酷な生活を再び繰り返すなんてムリ…。浪人せずに地元に残るという選択肢もないし、もしも落ちたら自殺しようと本気で考えていたほどです。第一志望は慶応大学経済学部。本来は理工学部を受けたかったのですが、理系は学費が高額なために両親の了承を得られず、文系のなかでも数学的要素のある経済学部を選びました。試験前夜はあまりの緊張で眠れず、それを和らげるために思考錯誤した結果が裏目に出て、翌朝はぼんやりとした頭で受験をするハメに…。結果的に、滑り止めとして受けたはずの慶応SFCは見事に不合格となりました(笑)。最終的に、第一志望の経済学部には悲願の合格…!長らく背負っていた重圧からようやく解放され、胸をなでおろしたのでした。

株式会社エッジコネクション 代表取締役 大村 康雄さん堕落した学生生活から一念発起!「経営学」の面白さに魅了される。

晴れて志望大学に入学した私は、過酷な受験生活の反動もあって、途端に堕落した生活に陥っていました。大学では複数のサークルに所属し、練習にも出ずに飲み会だけに顔を出すような日々を過ごしていたのです。しかし、大学1年生の終わりを迎える頃、ふと自分が過去1年間、少しも成長していないことに気づき、愕然としました。受験を乗り越えた1年間は、前年の自分とはまるで別人かと思えるほどに成長を実感できました。それに比べて大学で過ごした1年間は、あまりに人生を無駄にしたような気がして、途端に焦燥感を覚えたのです。まずは何かを学ばなければ…!ひとまず本屋に駆け込み、浪費した1年間を取り戻そうと、本を読み漁るようになりました。本来は理系志望だったこともあり、宇宙工学や相対性理論など、自分の興味が惹かれる分野の専門書を一通り読みました。そして、ほどなく辿り着いたのが、「経営学」の面白さだったのです。当時の私にとっての発見は、世の中のすべてのことが、誰かの意図の上に成り立っているという事実でした。たとえば自分がコンビニで商品を何気なく手に取ったのは、価格設定やパッケージデザイン、商品陳列をはじめ、必ず誰かの意図や計算の結果であるということです。少し考えてみれば当たり前のことなのですが、世の中の仕組みを知らなかった学生の私には衝撃的な気づきだったのです。自分はこれまで、誰かの意図に踊らされて生きていたのか…!それを機に、私はビジネスや経営に興味を抱くようになりました。できれば自分も〝意図する側〟にまわりたいし、少なくとも消費者として仕掛ける側の意図を見抜けるようになれば、世の中がより面白く見えるだろうと思ったのです。それからは、学部においてもマーケティングを研究するゼミに入り、学びを深めるようになりました。最終的にはファイナンスまで興味を広げ、専門書を読んで一通り勉強しました。

意気投合したアメリカ人留学生と共に、学生ベンチャーを立ち上げる。

「近ごろビジネスに興味があるんだ」…私がよく一緒に飲み歩いていた友人に、自分の近況を何気なく話したときのことです。彼の名はブレット・ユール、アラスカ出身のアメリカ人留学生でした。そのとき初めて知ったのですが、彼はなんとオックスフォード大学のMBAホルダーだったのです!毎週のように一緒に渋谷で飲み歩いて、酔っ払って肩を組んでカラオケばっかりしていた彼が、まさかのMBA?!身近な友人の意外すぎる経歴に、私は衝撃を受けました。それを機に、私たちはビジネスアイデアについて議論を交わすようになりました。次第に自分たちのアイデアを世に出してみたいと思うようになり、大学2年生の終わりに共同で学生ベンチャーを立ち上げたのです。時代はちょうど、「iモード」が世間に普及し始めた頃。もしも「iモード公式サイト」に採用されるようなサイトを作れば儲かるのでは?…ということで、見切り発車で制作に着手しました。私たちが作ったのは、今でいうTwitter(現X)のような機能を備えた口コミサイトでした。ところが…ユーザーが300名程度に達したところで、公式サイトに採用される要件を満たすためには、高価なサーバーが必要になることがわかったのです。どんなに面白いアイデアがあっても、現実のビジネスに落とし込み、スケールさせるのは容易ではないことを、このとき身をもって知りました。その他にも、アメリカのクラフトビールの輸入事業を手がけたり、飲食店の紙伝票をデータ化してトレンド分析に基づいた売上アップの提案をしたり…。いろいろと模索しましたが、当時はそれで食べていけるような状況ではありませんでした。そこで、就職活動が始まる大学3年生の秋に、ひとまず休業することにしたのです。

シティバンクに新卒で入行。同期4人で起業準備を進める。

就職活動は外資系企業を中心にエントリーしました。はっきりした物言いをするタイプの私には、年功序列や場の空気を重んじる日本企業は向かないだろうと、ブレットに言われたことも外資を選んだ理由の一つです。結果的にシティバンク銀行、IBM、HPから内定を得ましたが、私はシティバンクへの入行を決めました。これも、「ファーストキャリアはファイナンスにすべし!」というブレットの助言に基づいた選択でした。ちなみに同期のなかで留学経験を持たないのはおそらく私だけでした。日本にいながら私が英語を習得できたのは、日常的にブレットと英会話をしていたからです。おかげで私の英語は「アラスカ訛り」らしいのですが…(笑)。入行後は資産運用のコンサルティングセールスを担い、1年9ヵ月間在籍しました。シティバンクは社風もマッチし、楽しく働いてはいたのですが、やや物足りなさを感じていたのも事実でした。やはり学生時代の起業経験と比較すると、会社員としての仕事は定型業務の域を超えることはなかったのです。商品やサービスをゼロから企画し、自らマーケットを切り拓いていた学生ベンチャー時代には、たとえ小規模でも社会に影響を与えている実感が持てました。そこで、私は同期4人で在職中に起業準備を進め、満を持して独立することにしたのです。

エッジコネクションを創業するも、すぐに課題に直面する。

シティバンクを退職した翌月の2007年1月、学生時代に登記していた法人を改め、前職の同期と共にエッジコネクションとして創業しました。当初の構想では、自分たちの強みである語学力と営業力を活かしたビジネスを行うつもりでした。国内中堅専門商社とタッグを組み、我々がポテンシャルのある海外商材を発掘し、商社に代わって営業するというものです。弊社としては在庫を持たずして、商材が売れた分だけ成功報酬を受け取るというビジネスモデルです。既に独立前に顧客開拓には取り組んでおり、専門商社2社から業務を受ける確約も得ていました。しかし…いざ起業してみると、すぐに壁にぶつかりました。成功報酬である以上、固定の収入はありませんし、営業活動費は持ち出しです。起業まもない私たちには実績もなく、要は足元を見られていたんですね。商社を助けるために立ち上げたビジネスのはずが、自分たちが最も困っていました(笑)。このままタダ働きのような日々が続けば、赤字が拡大するばかり…。そこで当初のビジネスには見切りをつけ、セールスレップ(営業代行)に特化した業務を受託する方向に舵を切ったのです。当時はインターネット企業を経営する大学の同級生から助けられて、SEO対策の営業代行などで危機を凌いでいました。

株式会社エッジコネクション 代表取締役 大村 康雄さん事業が軌道に乗った転機は、クライアントの意外な声にあった。

潮目が変わった契機は、とあるクライアントの声にありました。自分たちがまったく自覚していなかった「顧客にとっての付加価値」に、そのとき初めて気づかされたのです。それは、電話営業を行うたびに我々が残していた「ログ」の存在でした。アポが取れた場合、お断りを受けた場合のいずれにおいても、その理由や担当者のプロフィール、会話の内容などを、細かく記録に残していたのです。それは金融機関で資産運用のコンサルティングサービスを行ってきた我々にとって、ごく当たり前の習慣でした。しかし、そのデータを見たクライアントが、「こんなにも貴重な情報が手に入るのなら、たとえ成約に至らなくても電話をかける行為に代金を払うよ」と、意外なご提案くださったのです!それを機に、弊社は現在の主力事業となるテレマーケティング事業を開始しました。それまでの完全成功報酬型の営業代行に比べて格段に経営が安定するようになり、おかげさまで初年度から黒字で着地することができたのです。また、取得アポの質においても、弊社は創業当初から高評をいただいていました。これも、シティバンク時代に培ったテレアポ取得のスタイルを、B to Bの世界に転用させることで価値を生んだ例でした。当時の法人営業担当者のテレアポといえば、「ちょうど御社の近くに参りましたので」…というような水準が一般的でした。これではたとえアポが取れても、効果的な提案には繋がりません。一方で、金融機関でテレアポをしてきた我々は法律上、断定的な表現が禁じられていたため、電話の段階で顧客の課題を詳細にヒアリングした上で、こちらの提案に興味を持っていただけるよう導くようなトークスクリプトを採用していました。その結果、双方の面会の目的が明確になり、顧客にとって質の高い提案に繋げることができるのです。このように、前職での常識がマーケットを変えることで付加価値を生み、顧客は順調に拡大していきました。現在も、弊社の売上構成比における7~8割はテレマーケティング事業によるものです。特に昨今は、企業において電話営業を内製化するハードルが高まっており、テレマーケティングを弊社に丸ごと外注いただくケースが増えています。

二度にわたって経験した、組織崩壊の危機。

今でこそ安定的に成長している弊社ですが、過去にはもちろん、さまざまな紆余曲折を経験しました。組織崩壊の危機には、これまで二度ほど直面しています。創業当初は特に、我々がまだ20代だった頃。当時は「会社」というより、「学生サークル」に近いような雰囲気でした。というのも、創業まもないベンチャーにとっての採用は難しく、当初の社員の多くが友人の繋がりで成り立っていたのです。その結果、人事評価は非常に曖昧なものに陥っていました。「友達だから」という理由で、成果に見合わないボーナスを支給しているような実態もあったのです。こんなことを続けていれば組織に不公平感が生じるし、何より経営が持たない…。それは明らかでしたが、社員の離職リスクを恐れて切り出せずにいたのです。しかし、状況は突如として一変しました。2011年3月11日、東日本大震災が東北地方を襲ったのです。それを機に、弊社の業務は一切の停止を余儀なくされました。「こんなときに電話をかけるなんて不謹慎!」…世の中のモードが一変し、企業がプロモーション活動を自粛するようになったのです。2ヵ月間も入金ゼロの状態が続くとなれば、もはや背に腹は代えられません。ついに我々は、人事評価制度の大幅な見直しに踏み切りました。結果的に多くの離職者を生むという痛みを伴うことにはなりましたが、実力主義の環境になったことで健全な経営体質へと変わりました。また、創業メンバー間の上下関係を明確に定めて組織運営をしていなかったことも、後に歪みを生む原因になりました。いま思えば、創業当初の私はCFO(最高財務責任者)のポジションにありながら、社長を立てるような動きがまったく出来ていませんでした。組織創りに関してその程度の心構えでしたので、後に自分が社長になってからも、組織づくりには苦戦しました。2015年、震災直後に縮小した人員も順調に増えていた頃、私は副社長から予期せぬ提案を受けました。それは、社長の私、もしくは副社長のいずれかが、会社を辞めるべきだという提言だったのです。当時の私は、組織運営のすべてを副社長に委ねていました。トップの立場にある私が社員と直接のコミュニケーションを控えることは、組織強化のために必要なことだと副社長が望んだからです。そのような状況で私が会社に残るとしたら、多くの社員は副社長と共に離職していくことは明らかでした。つまり、これは暗に私の辞職を促していたのだと思いました。しかし、結果的に私が下したのは、「自分が会社に残る」という決断でした。たとえ全社員が会社を去ったとしても、ゼロから立て直そうと覚悟を決めたのです。なぜなら、ちょうど数日後に地元の宮崎で記者会見を控えていたからです。延岡市役所の誘致により、弊社の新拠点が市内に進出することになり、雇用創出のニュースとして地元の新聞社やテレビ局が取り上げてくださることが決まっていたのです。さんざん地元を騒がせた挙句に私の退任ニュースが流れるようなことになれば、家族に迷惑がかかる…。それだけは避けなければなりませんでした。2015年5月、創業メンバーが去った後に残ったのは、私を含めて5名。しかも、そのうち3名は4月に入社したばかりの新卒でした。弊社にとって、まさにゼロからの再スタートとなったのです。

株式会社エッジコネクション 代表取締役 大村 康雄さん苦難を乗り越え、安定成長期へ。今後はさらなる組織拡大を目指す。

このように、私自身の未熟さにも原因があり、弊社は創業以来さまざまな失敗を重ねてきました。これから起業する人がやらかしそうな失敗なら、すべて経験済みだといっても過言ではありません(笑)。一方で、自分自身に人一倍の失敗経験があるからこそ、起業家や経営者、事業責任者の方々に、私と同じ失敗をせずに済むようなサポートができると思っています。せっかくリスクを取ってチャレンジした人たちが、苦しんでばかりいる世界では報われませんからね。経営者がハッピーであることは、その会社で働く社員の方々のハッピーにも繋がっていくものです。弊社は世の中のビジネスリーダーの方々にとって頼れるパートナーであるために、より一層の体制強化を進めていきます。おかげさまで2015年の再起から増収および黒字経営を継続しており、組織も50名規模に成長しました。ありがたいことに、現在は毎月100件以上の新規お問合せをいただいている状況です。人材の質に依存したビジネスである以上、理念経営や社員教育を重視しながら、新たな仲間を積極的に迎えたいと思っています。

 

◆ 編集後記 ◆

今回の取材は、五反田にある株式会社エッジコネクションのオフィスを訪問した。最初に目に留まったのは、営業からマーケティング、経営学、ファイナンスにわたるまで、実に幅広い領域を網羅した書棚の存在だった。大村社長ご自身は、常に読んでいる本がないと落ち着かないほどの読書家だと言うが、10年以上前から社員の方々にも書籍の貸し出しを行っているそうだ。社長の生い立ちストーリーを伺うと、どうやら読書好きなことに加えて、その職業観は特に母親から受け継いでいるように見受けられた。ご自身が図書館司書になる夢を実現されたお母様は、息子も同じく好きなことを職業にするよう望まれていたそうだ。実際に大企業を辞めて起業した際にも、まったく反対されなかったと言う。仕事は耐えるものではなく、自分らしく、好きなことを…。この職業観は、「人材育成と経営支援を通して、いかなる環境においても幸福を追求できるヒトと企業を作る。」という同社の経営理念にも反映されている。それは自社の社員とクライアント、双方に対する大村社長の想いではなかろうか。

これまでに最も影響を受けた人物は?…この質問に対して大村社長が挙げたのは、同社の取締役を務める趙美紀(ちょう・みき)さんの名前だった。彼女は同社がまだ10名規模だった頃に入社し、営業責任者を経て取締役に就任した実力派の女性である。彼女の舵取りがなければ、現在の成長は実現できなかったと語る社長は、本来は前に出ることを好まない性分でありながら、広報担当役員でもある彼女に押し切られて渋々メディアに露出する覚悟を決めたそうだ(笑)。取材では一切語られなかったが、実は大村社長のYouTubeチャンネルを発見した。チャンネル名は『コンサル社長のコツコツ黒字化ノウハウ術』。動画では起業や経営に関する大村社長ご自身の失敗談も赤裸々に語られており、ビジネスパーソンにとって役立つ情報が面白く、わかりやすく発信されている。ぜひ一度ご視聴をお勧めしたい。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2024年4月16日