オンラインギフトサービスを開発・運営する株式会社ギフトパッドは、2011年の創業より、〝贈り物〟を通じて新たな市場を創出してきたギフトテック企業である。2020年1月、株式会社ロッテとの新サービスとして、同社の人気商品を詰め合わせたソーシャルギフト、『ロッテオリジナルギフトBOX』の販売も開始した。既に多くのメディアから注目を集めているギフトパッドだが、本稿では、創業者である園田氏の生い立ちから創業ストーリー、人生哲学にわたるまで、その個性あふれる人物像にフォーカスしてお伝えしたい。
ギフト市場の活性化と、新たなマーケットの創造を目指して。
弊社はオンラインギフトサービスを開発・運営している企業です。ギフトカードやメール、SNSなどを介した新たな贈り物のスタイルを、あらゆるシーンにおいて提案し続けています。もともとは、〝結婚式の引き出物〟に対する課題意識が始まりです。2011年の創業当時、結婚式場や二次会の店に、紙のカタログギフトが入った大きな袋が置き去りにされている光景を見て、とても非効率だと感じました。
紙カタログをオンラインに変えれば、重くて嵩張る冊子は不要になります。また、商品メーカー各社にとっては、紙カタログの発行に多大なコストがかかるうえ、競合との値下げ合戦にも陥りやすいという業界構造上の課題がありました。さらに、カタログ掲載期間中は在庫を保障する必要があり、メーカーサイドは大きな負担を強いられていたのです。オンラインカタログなら、たとえ欠品が生じても商品の削除・差し替えが容易なため、在庫を保障する必要がありません。そこで、弊社は創業時よりメーカー様に対して、「掲載時の初期費用ゼロ」「データ差替え時の手数料ゼロ」「売り切れOK」というオファーを掲げ、商品の売上からのみ手数料をいただくビジネスモデルを貫いてきました。適正な卸値を実現したことで、多くのメーカー様から引き合いをいただくようになり、現在の出品企業数は累計710社に上っています。
〝結婚式の引き出物〟というのは、一つのソリューションでしかありません。我々は、ギフトを導入する顧客企業様、商品を提供するメーカー様、エンドユーザーである消費者様に対して、これまでにない価値をもたらすプラットホームを目指して進化を遂げてきました。
たとえば、自動車ディーラー様への導入事例。成約時の顧客への贈答品をオンライン化するだけでなく、担当者オリジナルのメッセージ動画、接客に対する評価アンケートと共にお届けしたり、成約後も顧客のフィードバックが得られる仕組みを追加したりすることで、顧客満足度の向上や商品開発へのヒントが得られる環境づくりに貢献しています。また、ある仏自動車メーカーは、フランスの有名スイーツブランドの商品を顧客に贈ることで、企業タイアップによる相互のブランドイメージ向上、顧客の誘引に繋がりました。
また、消費者心理において興味深いのは、「買うとき」と「もらうとき」で、選ぶモノが変わることです。たとえば、ネットショッピングをする場合。通常、欲しいモノをピンポイントで探し、いかに安く手に入れるかを精査しますね。一方で、ギフトカタログから商品を選ぶ場合。もらう側には〝タダ〟という意識があるため、それまで知らなかったモノ、試してみたい商品やサービスに興味がわきます。このように、オンラインギフトの世界は、商品とユーザーとの新たな出逢いの場を創出できる可能性に満ちているのです。
約17兆円の規模を持つギフト市場。オンラインギフトにおいては、2019年に東証マザーズに上場した株式会社ギフティがあり、コンビニの商品や金券などを、個人間、個人・企業間で手軽に贈れるオンラインサービスとして盛り上がりを見せている成長市場です。弊社は従来のカタログ型ギフトが持つ〝選べる楽しさ〟に、ITを通じたギフトの多様な活用策や付加価値を提供する〝システム開発企業〟として、すべてのステークホルダーにギフト(=喜び)をもたらすプラットホームの構築を目指しています。
生まれは単純に言うと「ぼんぼん」、医者の息子です(笑)。そんな自覚は当然ありませんでしたが、開業医の父のいる家庭に、4人兄弟の3男として生まれました。出身地は熊本県人吉市。4歳の頃には兵庫県芦屋市に移っていたので、熊本時代の記憶はほとんどありません。
幼少期の私は、いわゆる目立ちたがり屋。誰も手を挙げない学級委員長に、平気で立候補するような子どもでした。運動も好きで、母方の叔父が空手部強豪大学で2世代にわたって主将を務めた2人だったので、幼い頃から空手に親しんでいました。男兄弟4人ですから、ケンカすれば血が出るのは当たり前(笑)。兄弟に勝つためにやっていたようなもので、4人揃ってそこそこ強かったと思います。小学校のクラブにも段持ちの先生がいて、少林寺拳法も習っていました。
独学のクラシックギターで人気者に! 勉強のほうは…?
小学校5年生のとき、誕生日プレゼントとして買ってもらったのを機に、クラシックギターを始めました。父がなかなか器用なタイプで、ハーモニカが吹けたりギターが弾けたり、いま思えば絶対音感があったのだと思います。別に習ったわけでもなく、「禁じられた遊び」なんかを弾いていましたから。
私の中学校時代といえば、ちょうどフォークギターが流行った頃。文化祭などでギターを弾くとモテますから、そこで味を占めたんですね(笑)。ちょっとチヤホヤされて、途端に勘違いが始まりました。中学3年間はフォークギターを弾く一方で、剣道部の部長も務めました。これも、父の影響だったと思います。「男の子は剣道だ!」という偏った価値観のもと、兄たちも剣道部にいたので、当たり前のように入部したのでしょう。
勉強は正直言って、できたほうだと思います。できたけど、しなかった(笑)。必要性を感じなかったのです。特に努力をしなくても、いわゆる頭の良いクラスメイトに負ける気はしませんでしたが、あるタイミングで一気に差がつきました(笑)。さすがにまったく勉強しなければダメですね。
ジャズギターに転身、プロを志す。
西宮の公立高校へ進み、そこでジャズギターに出逢いました。クラスメイトのお父さんが、日本に初めて『Blue Note』を誘致したジャズ界の重鎮(ベーシスト 宮本直介氏)で、その息子から「ジャズが面白い」と教えてもらったのがキッカケでした。そこから有名な先生を紹介してもらい、兵庫から大阪の千里まで、毎週ギターケースを抱えてレッスンに通う日々が始まりました。高校3年間は、まさにジャズギター三昧!自分でも腕に自信がありましたが、当時は文化祭などで演奏すると、音響関係者など業界人から大絶賛され、ちょっとした有名人になりまして…。ますます勘違いが加速しました(笑)。それで、卒業したらアメリカに行こうと決めたのです。ジャズの本場で、プロになってやろうと。
18歳。ギターを抱え、アメリカに単身留学へ。
卒業してすぐ、18歳で渡米しました。本来なら、ジャズは東海岸のほうが盛んなのですが、父方の叔母が国際結婚をして親戚一同カリフォルニアにいた経緯から、うちの兄弟は留学するならカリフォルニアと決まっていたのです。好きなことを自由にさせてくれる親のおかげで、若いうちから色々と経験させてもらったと思っています。現地で私は、3つの学校に通いました。最初はカリフォルニア州立大学サンノゼ校(現サンノゼ州立大学)という、いわゆるシリコンバレーの中心地。その後、南カリフォルニアにある短期大学Ventura College。そして最後が、ハリウッドにあるギターの専門学校Musicians Instituteです。転校を重ねているので、私の最終学歴は専門卒になります。渡米後は、学校でジャズギターを学びつつ、ギター教師やバンド活動をしていました。ギターで十分に食べていける状況ではなかったものの、当初はプロとしてやっていこうと思っていました。しかし、とんでもないハイレベルのミュージシャンに続々と出逢うなかで、現実を知ることになります。特にMusicians Instituteは、世界中から一流のギタリストが集まる学校。なかでも私が所属していたGIT(Guitar Institute Technology)は当時、音楽大学のなかでも断トツの強者だけが集結していました。10数クラスのうち、トップ2クラスがプロフェッショナルギターコース。私はその最高位クラスに入れたのですが、そこには明らかに敵わない2人がいたのです。彼らとの歴然とした差を目の当たりにしたとき、自分は音楽ではやっていけないと身をもって知りました。こればっかりは、持って生まれた才能だから仕方がない。彼らとは、最初から闘うべきフィールドが違いました。そこであっさりギターを辞め、ビジネスの世界へ行こうと舵を切ったのです。それ以来、ギターは弾かなくなりました。当時の選択に、悔いは一切ありませんね。
実はアメリカで、最初の起業を経験しています。卒業後、音楽家向けのアクセサリーの製造・販売をしていました。ミュージシャンの指を鍛えるグッズを開発し、音楽雑誌に広告を出したり、アメリカやヨーロッパで展示会をやったり、バイヤーと商談をしたり。結果的にはアイデアを速攻でパクられ、有名なギタリストを広告塔に使った競合に一撃でやられました…。我々は、大量のバネとプラスチックの在庫を抱えて終了…(笑)。24歳のときです。いい勉強をさせてもらいましたね。
帰国後、初の仕事は英会話講師。
1987年のブラックマンデーを発端に、アメリカ経済は悪化。その後、7年間過ごしたアメリカを後にしました。しかし、帰国したところで、私には学歴も職歴もありません。履歴書を見た大手人材紹介会社の担当者から言いたい放題いわれ、頭に来たことを覚えています(笑)。そんなある日、大手英会話教室の『子ども英会話』講師を募集する新聞広告を発見。勤務地が近かったので応募してみると、当然ですが英語ペラペラ、初受験のTOEICもほぼ満点。語学力に助けられ、いきなり待遇が変わりました(笑)。結果的に、大人向けの英会話教室の主任講師として採用され、教材販売、体験レッスンからの入学率ともにトップの実績を上げたことで、かなり自由度の高い環境で仕事をさせてもらえました。
30歳手前ごろ。人生、なかなかの激動期でした。まず、阪神・淡路大震災により、実家の医院が全壊。その日を境に、土地もない、建物もない、人もいない状態へと日常が一変し、父と共に仮設診療所からの再起を図っていました。一方で私は、大手外資系ヘルスケアカンパニーへの転職活動を開始。このときも語学力に助けられ、トントン拍子に選考が進んでいました。しかし、役員面接直前のある日、バイク走行中に大事故に遭遇!災害復興車両と接触事故を起こし、病院で目を覚ましたときには、肩から足先まで21箇所を骨折していました。なんと、道の真ん中で勢いよく吹き飛ばされたというのに、奇跡的に死ななかったのです!運良く一命は取り留めたものの、このときすべてがリセットされました。転職話は白紙に戻り、身体は重傷で動かない。同時期、離婚も経験しました。
医療コンサルタントの道へ。全国を飛び回り、多忙な日々を送る。
回復後は家業の再建に奔走し、おかげさまで父の医院を再開することができました。もともと業界の人間ではなかった私には、日本の医療現場への純粋な疑問や改善すべき点が、たくさん見えていました。そこで、クリニックへの入室をスリッパから土足に変えたり、予防医学やメディカルフィットネスの概念を発信したり、土曜の午後を診療時間にしたりと、当時としては非常識な取組みを積極的に実行しました。少なからずバッシングも受けましたが、あるとき国内大手監査法人のヘルスケアチームから、病院の経営コンサルティングを共同でやらないかとお誘いをいただいたのです。その監査法人では、病院の財務経営、M&Aのコンサルティングを手掛けており、一方の私は、家業が医院を経営していたことから、マネジメントや診療報酬の改定、分析にノウハウがありました。そこから監査法人との共同チームで全国の病院の経営コンサルティングの仕事が始まり、医業経営コンサルタントの資格継続研修の講師を税理士の先生方に向けて行う仕事もいただけるようになりました。
不思議なご縁が重なり、ギフトパッド創業へ。
創業のキッカケは、セミナー講師として神戸に出向いた際のご縁から生まれました。2000年代の神戸は「女性の街」と呼ばれており、女性起業家が続々と誕生していました。新しいことに、何やら積極的な空気があったのです。セミナー当日、偶然に参加していたブライダルプランナーの女性から、結婚式の引き出物に関する相談を受けたのが始まりです。彼女は後に、最初の役員の一人になりました。2010年に起案して、翌年には会社を設立しています。
その当時、病院コンサルティングの仕事は報酬も高かったし、順調ではありました。しかし、自分のなかで一生の仕事ではないと感じてもいたのです。コンサルタントは、現場の実務を担うわけではありません。だからこそ、もっと真の意味でクライアントの課題を解決し、明確な価値を提供できる仕事を、私自身が求めていたのだと思います。
とはいえ、まったくの未経験領域。まずはブライダルプランナーの彼女の人脈を頼りに、手探りで事業を始めました。前職を辞め、退職金を切り崩しながらの活動でしたが、最初は散々な目に遭いました(笑)スマホが普及する前だったこともあり、まだまだ世間は紙カタログが主流。設立3年目までは、年間売上が数百万円に満たない状態でした。こんなサービスが本当に世の中に受け入れられるのかと疑う瞬間もありましたが、必ずWEBの時代が来る!その確信だけはあったのです。
そんななかでも、数々のご縁が我々を引き上げてくださいました。大手企業の担当者の方々が、初期の頃から我々のサービスの将来性に共感し、導入くださったのです。「あの企業にも導入実績があるなら」と、そこから徐々に取引が拡がっていきました。関西から来た私にとって、もともと東京のコネクションはゼロに近い状態。前職の人脈から不思議なご縁が繋がって偶然に出逢った方(私の恩人!)に、あらゆるタイミングで顧客をご紹介いただいたのが、すべての始まりでした。ご縁は何処に転がっているか分からないものです。大切なことは、目先の見返りを求めず、どんな人にも同様に接すること。それは、いつか必ず自分に返ってくるものだと知りました。大きく潮目が変わったのは2017年頃。スマホが普及し、小売業界を中心にデジタルへの移行が始まったのです。そこから一気に、カタログ業界からの引き合いをいただくようになりました。
園田社長が描く、ギフトパッドの未来。
会社としては現在、海外企業とのタイアップをはじめとした、インバウンド&グローバル対応に注力しているところです。創業当初から変わらず大事にしてきたのは、「三方良し」のビジネスモデルであること。業界において我々が独り勝ちしようとは、そもそも考えていないのです。たとえば、弊社と取引することで、メーカー様の販路が拡がったとか、事業者様の利便性が向上したとか、ユーザー様が商品を知る機会が増えたとか、地域社会の経済に貢献できたとか…。弊社に関わるプレーヤーの方々に、何らかの形で貢献できること。そこにこそ、我々の存在価値があると考えています。いわば、「競争」ではなく「協奏」の世界。これからもっと、新たなチャレンジを通じて、我々に関わる人々と喜びを分かち合える未来があるなら、これほど嬉しいことはありません。
◆ 編集後記 ◆
個人間のギフトはもちろん、企業の贈答文化は古くから存在するものだが、株式会社ギフトパッドは、そんな贈り物の常識を、「IT」と「アイデア」の力でアップデートしている非常にユニークな企業である。今回のインタビューを通じて、従来のギフトには、数々の「もったいない」が存在することを知った。同社は紙のカタログをオンラインにすることで、顧客の業務効率化やコスト削減に貢献することはもちろん、ギフトを贈る行為そのものを、企業のセールスプロモーションやマーケティングに繋げる仕組みに変え、新たな市場を創り出したのである。そのニーズは、明らかに市場に存在した。ギフトの利用・登録企業のマッチングパートナーとしてNTTドコモ、ギフトを販売するパートナーとして大手百貨店、広告代理店など、同社が提携する企業には錚々たる顔ぶれが名を連ねている。さらに、2018年には地方創生事業を開始。長野県や愛媛県をはじめ、地方自治体と提携し、旅行者が地域産品カタログに写真や動画を添付して、お土産として贈れるサービス『みやげっと』もリリースした。旅先から嵩張る土産物を持ち帰る手間もなく、SNSなどで相手にダイレクトに贈れば、配送先住所を知らなくても届けることができる。もらう側も、複数の選択肢の中から好みの商品を選べるのは好都合だ。私自身、もらって困るお土産は何度か経験している…(笑)。なるほどお土産の未来は、このように変わっていくのかもしれない。
さて、可愛らしいリボンをモチーフにした同社のロゴに対して、初対面の園田社長は、スーツの上から明らかに分かるほどのマッチョな男性!聞けば、20代から筋トレを極めており、過去にはベンチプレスのチャンピオンを獲った経験もあるそうだ。
ご自身の過去を面白おかしく語る園田氏だが、尋常ではない壮絶な経験をされている。特に大震災のときには、お父様が借金をした状態でご実家の医院が全壊。経営破綻寸前、数億円の保証書にサインをした経験など、人生ギリギリのところから這い上がっての現在である。人生、悲惨なこともある一方、幸運もそれ以上に存在する。たとえピンチが訪れても、正しい行いを続けていれば、必ず人との出逢いがあり、導かれるものだと彼は語る。聞けば、人生2度目の事故入院から院内感染を起こして瀕死状態に陥ったことも、アメリカ滞在時に銃を突き付けられた経験も複数回あるそうだ。そんな修羅場を生き延びたというのは、きっと何か果たすべき使命のある、選ばれた方なのだろう。まだまだ彼の挑戦は続く。これから見せてくれる未来の展開が、心から楽しみである。
取材:四分一 武 / 文:アラミホ
メールマガジン配信日: 2020年3月16日