NYC株式会社(本社:東京都中央区)は、中小企業の「後継者不在の問題解決」と「事業の継続・成長」を目的に設立された投資会社である。2022年の創業からわずか3年半にして18社のM&Aを行い、グループとしての売上は約74億円、役職員数は221名、累計資金調達金額は約56億円に達している。同社は中小企業を対象とした独立系バイアウトファンドで出逢った30代の男性メンバー3名が立ち上げたスタートアップである。中小企業の事業承継に対して、創業メンバー共通の課題意識やビジョンから生まれた同社には、ファンドにはない特徴的な取り組みやカルチャーが存在する。今回は、社長の中塚氏の生い立ちやキャリアにフォーカスしながら、同社の創業ストーリーや独自性、存在意義の本質へと迫っていきたい。

「その仕事を、未来へつなぐ。」を使命に掲げる中小企業専門の投資会社

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん私たちは、中小企業を専門に事業承継を行っている投資会社です。全国の売上1億円~50億円未満の企業を対象に、自己資金による投資(自己勘定投資)を行っています。投資家から資金を集めてM&Aを行うファンドとは異なり、私たちは日々の経営コンサルティング業務を通じて稼いだ資金の投資や、金融機関からの資金調達を通じて、あくまで自己勘定投資のスタイルで事業承継を行っています。オーナー様のメリットとしては、M&A後に外部の投資家がいないため、風土や価値観、経営体制など、従来通りの経営スタイルを維持しながら、意思決定においても高い自由度を確保することができます。我々としても、売却時期の制限をはじめ、外部の投資家の意向に左右されることがないため、会社単体での事業成長を目指して、中長期の伴走支援を行うことができるのです。

家賃3万円!幼少期を過ごした六畳一間生活の記憶

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん生まれは広島県福山市。小学4年生まで、両親と僕、妹の4人家族で六畳一間のアパートに暮らしていました。両親はいずれも高卒で、それぞれ地元の中小企業に勤める会社員。けっして裕福とは言えない家庭で、当時の家賃は毎月3万円。子どもの頃、家のボットン便所にスリッパを落としたことを今でもよく憶えています(笑)。2歳下の妹とは、いつもケンカしてばかり。口でも力でも敵わないことへの腹いせに、僕が続きを楽しみにしていたゲームのデータを妹によく消されたものです(笑)。

小学生時代、父親の脱サラ成功により生活が一変!

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん小学生時代、僕は学級委員でありながら、いわゆる優等生タイプではありませんでした。一般的には規則や慣例に対して模範生であることが、学級委員に求められるリーダーシップですよね。一方の僕は、些細な物事にもいちいち疑問や異論をはさむタイプで(たとえば校内清掃の手順など)、先生としてはなかなか手を焼く生徒だったと思います。

これは恐らく、父親ゆずりの性格でしょう。何事においても、自分が納得しない限り黙って従うことができない。実際に父は、あるとき会社の飲み会で社長とケンカして、そのまま仕事を辞めてしまいました。しかし、それを機に起業したことで稼げるようになり、僕たち家族は六畳一間のアパート暮らしから、新築マイホームへと移ることができたのです。

近ごろ歳を重ねたせいか、自分が父の性格に似ていることを自覚する機会が増えてきました。不思議なことに、起業時の年齢や、同僚と起業したこと、社名に創業メンバーの名前の頭文字を使っていることなど、気づいたら父と同じ道を歩んでいるのです。

高校生時代、歴史小説『三国志』との出逢いが世界を広げてくれた

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん父の事業が軌道に乗ったおかげで、僕は福山市にある私立の中高一貫校に通うことができました。同級生には、僕と同じく地元の中小企業経営者の息子も多く、授業参観日には校庭に外車が並ぶような学校でした。僕の中学生活はサッカー部の練習を除けば、ほとんど毎日がゲーム三昧。高校受験がないので勉強もしませんし、いま思えば漫然と過ごしていましたね。

高校1年生になったとき、気づけば僕は教室で孤立していました。話し相手がいないので、授業の合間や昼休みが暇になり、僕は初めて勉強するようになりました(笑)。先生はそんな僕の状況を気にかけてくれていたのか、あるとき一冊の本を渡してくれました。中国の歴史小説『三国志』。それまでゲームばかりしてきた僕にとって、ほぼ初めての読書体験。読んでみると、これが実に面白かった。それを機に、司馬遼太郎や吉川英治など、歴史小説の世界に惹き込まれていきました。読書を通じて見える世界が広がったのは僕の人生にとって大きなことだったように思います。

若手IT起業家への憧れから、ビジネスの世界に関心を持つ

僕が高校2年生だった2005年頃は、ホリエモン(堀江貴文氏)や村上ファンドに関するニュースが連日ワイドショーを賑わせていました。サイバーエージェントの藤田社長を知ったのも、ちょうどこの頃でしたね。僕にとって、それまで“社長”といえば“おじさん”のイメージだったのですが、当時のIT起業家たちは圧倒的に若くてかっこよかった。彼らの存在を知ったことで、ビジネスの世界に興味を抱くようになりました。

私立理系学部に進学。希望の就職に向け、学歴ロンダリングを企てる

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん1年間の浪人生活を経て、僕が合格したのは立命館大学でした。本当は早慶上智を狙っていたのに…(笑)。強烈な学歴コンプレックスに苛まれた僕は、入学前からいわゆる“学歴ロンダリング(院ロンダ)”を狙っていました。なぜなら当時の僕は、理系の就職は学歴が大きく影響するシビアな世界だと感じていたからです。現状の学歴のままでは、自分が望む企業への入社は難しいだろうと思い、大学院進学で挽回を図ろうとしたのです。大学院の入試科目を調べてみると、必須科目に僕の苦手な英語が入っていました。ちなみに入学当初に受けたTOEICの結果は440点。大嫌いな英語を、毎日コツコツ勉強できる自信はありませんでした。そこで、大学院入試前の一定期間、海外で英語漬けの環境に自分を追い込むことで、強制的に英語力を上げようと考えたのです。

留学資金を稼ぐためにアルバイトに励むも、成績はダダ下がり

大学3年生になったら英語力をつけるために海外留学する!それだけ決めていた僕は、1年生の後期から資金を稼ぐためにアルバイトを始めました。スポーツイベントの設営スタッフ、アーティストのライブ機材の搬出入&運営、某バーガー店、家庭教師など、いろんなバイトを経験しましたが、メインでシフトを入れていたのは某餃子屋でした。ここを選んだ理由は、まかないが充実していると聞いたから。実際まかないは充実していたのですが、仕事はかなりハードなものでした。なにせ僕が働いていた店舗は全国売上3位。主な客層は、深夜に来店する威勢のいいトラックドライバーたち。お客さんやチーフに怒られまくりながら勤務時間は常に全力。外国から出稼ぎにきたスタッフと慰め合いながら週5ペースで働いていましたが、あの頃に根性や体力を鍛えられた気がします。ちなみに深夜にバイトが終わると、そのまま自宅に戻って友人と徹夜麻雀。体力をそこで使い果たすので、肝心の大学の授業からは段々と足が遠のいていきました…。

留学先はアメリカやオーストラリアではなく、まさかのフィリピン!?

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さんさて、睡眠時間や成績を犠牲にしてまで働いたのに、結局お金は貯まらなかったんです。麻雀を仲間と打つだけでは飽き足らず、ゲーセンの“麻雀格闘倶楽部”に課金までしていましたし、ロードバイクで坂本龍馬を巡る旅にハマったりもして、そろそろ留学準備をしようかなと思ったある日、希望していたアメリカやオーストラリアは留学費用が高いという事実を知ったのです。渡航費用の相場を知らなかったんですね。焦ってひとまず、「格安 英語留学」で検索。Googleによると、僕の予算で行ける留学先の候補は、フィリピン・フィジー・マルタの3ヵ国でした。そのなかで、僕は“バナナ”とか“フィリピンパブ”とか、かろうじてイメージできるフィリピンを選びました。フィリピンの公用語が英語であることも、このとき初めて知ったんですけどね。フィリピン、全然行きたくない…。これが僕の正直な気持ちでした。当時僕が持っていたフィリピンのイメージは「発展途上国で治安も悪く、街も空気も汚れている」といったものだったのです。今思えば偏った先入観にすぎませんが、それでも僕には他に選択肢がありませんでした。僕は新設学部の1期生だったので休学希望者の前例がなく、その手続きにおいては、学部長まで巻き込んで周囲をかなり騒がせていましたし、もはや後には引けない状況でした。

人生観が劇変した、フィリピン留学での刺激的な出逢い

海外経験なんてハワイしかなかった当時の僕にとって、フィリピンは見るものすべてが新鮮でした。熱い!排気ガスやばい!渋滞!うるさい!いろんな人が絡んでくる!カオス…!!初めてマニラに降り立った日の衝撃は、今でも鮮明に憶えています。こんな環境で1年間も暮らせるだろうかと、思わず不安になりました。しかし、このときのフィリピンでの経験が、僕の人生観を大きく変えることになります。まず、選んだ学校がとても良かった。ネット検索で一番上位に表示された語学スクールに安易に申し込んだわけですが、その学校を選んだ最大の理由は、運営者も生徒も全員が日本人だったからです。人生史上初の単独海外。しかも、滞在先は発展途上国です。英語ができない僕にとって、日本人の存在は大きな安心材料でした。

さて、現地の語学スクールには、日本人の留学生が常時30人ほど在籍していました。それぞれ滞在期間が異なるので、入れ替わり立ち替わり人が訪れては去っていきます。全寮制になっており、僕の部屋はルームシェアだったので、初対面の人たちが毎週のようにやってきては寝起きを共にするという刺激的な生活を送っていました。

留学生の平均年齢は26歳くらい。ナース、SE、主婦、マッサージ師、ホステス、フラワーコーディネーター、テレビ局のAD、会社員、フリーター、学生など、メンバーの属性は実にさまざまです。共通点があるとすれば、みんな“普通”の日本人ではなかったこと(笑)。少なくとも、大学のキャンパスでは絶対に出逢えないような変わった人たちばかりでした。フィリピンへの英語留学は今では一般的な選択肢になりましたが、当時は日本人が行きたがるような国ではなかったので、そこをあえて選ぶ人は、やはり良い意味で変わった人が多かったのだなと思います(笑)。

滞在中は語学スクールの仲間と、NGO活動やボランティア活動に参加したり、スモーキーマウンテン(ごみ山)を漁って生活している貧しい子どもたちと交流したり。そこに暮らす子どもたちは、食べる物もない、学校にも行けないような極貧生活をしているのに、本当に屈託のないキラキラした笑顔を向けてくるんですよね。海外に出て初めて、多種多様な生き方に触れ、日本の豊かさを改めて実感し、僕にとっての見える世界は大きく広がりました。同時に、大学院進学という当初の目標は、徐々に霞んでいったのです。

ワーホリビザでカナダへ!語学留学の目的だった大学院進学をついに断念

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん一年間滞在する予定でいたフィリピン留学を半年で切り上げ、残りの休学期間はカナダに渡りました。理由はマニラでの生活に慣れ、居心地が良くなってしまったから。これは仕事でもそうなのですが、居心地の良い場所ではもう成長できないのです。もっと新しい環境でチャレンジするべきだと、学校の先生も背中を押してくれました(まあ、僕の話す英語がフィリピン訛りになっていたことも理由の一つでしたが…)。

カナダを渡航先に選んだ理由は、フィリピンとは正反対の極寒の地であること。そして、相変わらずの金欠だった僕にとって、ワーキングホリデービザで働ける国というのが必須の条件でした。フィリピンから帰国後、広島で約1ヵ月間のアルバイト生活を経て、今度はトロントに飛びました。滞在5ヵ月間、現地でさまざまな経験をしましたが、僕の進路を決定的に変えたのは、トロント大学での講義です。と言っても、入学したわけではありません。。

日本の大学を休学してカナダに渡り、日中は飲食店でバイト、夜は語学学校に通っていた僕は、無性に英語以外の勉強がしたくなったのです。トロント大学といえば理系分野の名門。僕はどうしても講義を受けてみたくて、当時流行っていたmixi(ミクシィ)を通じて、トロント大学の日本人留学生を検索し、片っ端からメッセージを送りました。その結果、何人かの留学生が協力してくれて、トロント大学の講義を受講することができたのです。

初日に驚かされたのは、講義に臨む学生たちの真剣な眼差し。日本の学生のように、講義中に居眠りをしている人はまずいませんでした。教授への質問が途中で打ち切られるほど、誰もが前のめりで講義に参加しているんです。この光景を目の当たりにして、僕は大学院への進学を諦めました。一心不乱に勉強する世界の学生たちを前に、自分の中途半端な熱意や勉強量では絶対に敵わない…さっさと就職すべきだと悟ったのです。

英字雑誌から、初めて「プライベート・エクイティ」の存在を知る

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さんトロント滞在中、カフェでふと開いたイギリスの経済雑誌 The Economistに、プライベート・エクイティ(PE)に関する記事が載っていました。僕はそれまで、未上場企業の株式や事業に投資する仕組みがあるなんて知らなかったので、とても興味を惹かれたことを覚えています。

記事を読んで思い出したのは、フィリピン留学中に出逢った、いろんな職業の人たちのこと。世の中には、僕ひとりの人生ではとても体験しきれないような種類の職業があり、それぞれの仕事に魅力があるようでした。彼らが熱く語る仕事への想いに耳を傾けることが、僕の知的好奇心を大いに満たしてくれました。将来は、いろんな業種に接する仕事がしたい…。漠然とそんなことを考えました。PEとはまさに、多業種の企業に関われるうえに、経済性・社会的意義を同時に追求できる立場です。これが僕にとっての企業投資の世界との最初の出逢いであり、このときに感じたトキメキこそが、今の仕事に繋がる原点になっています。

有名企業への就職に成功!しかし、内定者懇親会で自信を失くす

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さんとはいえ、いざ就職活動となると、明確にやりたいことが見つからない時期もありました。有名企業で規模の大きな仕事に携わりたい、グローバルな舞台で挑戦したい、変化の速い環境に身を置きたい――そんな漠然とした望みを胸に、金融、通信、メーカーなど幅広い業界の選考を受けていました。
最終的に入社したのは、ソフトバンク株式会社。最初から第一志望だったわけではないのですが、選考を通じて同社のグローバル展開やスピード感ある社風を知り、内定をいただく頃には自分自身も強く惹かれていました。振り返れば「偶然の出会いから恋愛のように惹かれていった」就職先の決まり方だったと思います。

数ヵ月後、都内のホテルで行われた内定者懇親会に、約1,000名の同期が集まりました。僕と同じテーブルについたのは、一流大学のメンバーばかり。ここで再び、僕の学歴コンプレックスが発動しました。さらに、留学して440点から895点まで上げたTOEICの点数など、密かに誇りにしていた英語力も、たいした武器にならないことが判明したのです。

そう…内定者の多くが留学経験者でした。ピカピカの学歴に、語学力まで兼ね備えたサラブレッドたち。彼らが口を揃えて希望するのは、マーケティングや法人営業、国際営業など、いわゆる花形部門でした。僕も密かに国際営業を狙っていたものの、圧倒的にハイスペックな面々を目の当たりにして、途端に自信を失いました。これだけ優秀な人材が1,000人規模で揃っていたら、自分なんて国際営業どころか、田舎の僻地に飛ばされてしまうかもしれない…。当時の僕は「高学歴=仕事ができる」と思っていたのです。

ライバルたちと競合しない道を模索し、財務部配属を志願する

懇親会の翌日、僕は大学の図書館に駆け込みました。目的は、自分のやりたいことを再考すること。数ヵ月後の人事面談までに、希望部署を決めておく必要があったのです。国際営業を希望するのは得策ではない…他の内定者たちに対して強烈な劣等感を覚えた僕は、彼らと正面から対峙する道は避けねばならないと感じていました。

就活中に使っていたノートを久々に見返すと、自分がソフトバンクの最終面接に向けて準備をしていた頃の新聞のスクラップが目に留まりました。そこには、“M&A”とか“資金調達”とか、僕にとって馴染みのない言葉が躍っていました。そのとき理解できたのは“企業買収”に関する事業がソフトバンクの強みであることくらいで、具体的に何をするのかまでは想像もつきませんでした。それでもなんとなく、この分野に関われたら面白い経験ができそうだと直感したのです。

よし、財務部に行くぞ…!いま思えば、実に安易な決断をしたものだと思います。なぜなら僕の大学時代の専攻は、商学部でも経営学部でもなく、生命科学部でしたから(笑)。たとえ財務部を希望したとしても、実際に配属される可能性は低いことは明らかでした。

なんとかアピールできる手段はないかと思案した僕は、人事面談の日までに取得できそうな会計資格を探しました。最初に思い浮かんだのは簿記検定でしたが、残念ながら間に合いそうにありません。そこで見つけたのが、BATICと呼ばれる国際会計検定の資格でした。英語で出題される試験でしたが、どうやら2週間程度の勉強で取得できるという難易度の低いもの。僕はすぐに申込み、付け焼刃の勉強で無事に合格しました。そして迎えた人事面談では財務部を希望し、取得したばかりの英文会計資格について猛烈にアピールしたのです。数週間後、僕が人事から受け取ったのは、希望通りの財務部への配属通知でした。

経理としてキャリアをスタート。しかし、自分探しは終わらない…

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん入社当初の僕といえば、まったくの役立たずでした。会計知識が明らかに足りない状態で財務部に配属されたので、専門分野の勉強をしながら、日々の経理業務に追われていたのです。そんな余裕ゼロの期間を経て、ようやく仕事にも慣れてきた頃、ふと我に返った瞬間がありました。これって、僕のやりたいことだっけ…? ちなみに経理としての自分が、キャリアアップのために必要なスキルや資格、実務経験は、その時点で明確にわかっていました。財務会計分野は職務内容とスキルが標準化されており、キャリアプランが立てやすい職種だったのです。しかし、そもそも僕は財務会計のプロフェッショナルになりたいのだろうか…? もともと僕が財務部への配属を希望したのは、優秀な同期たちと異なる道を選ばなければ勝ち筋はないと判断したからでした。多忙な毎日を過ごしながら、ふと襲ってくるモヤモヤとした感情は、いつしか見過ごせないほどに膨らんでいきました。

経営企画部に憧れ、異動の道すじを模索する

経理として社内のさまざまな部門と関わるなかで、僕は経営企画部の仕事に興味を持ち始めていました。第一に、「経営企画」という言葉の響きがかっこいい(笑)。僕がいる財務部と同様、会社のお金に関わるセクションですが、その役割や視点は大きく異なるようでした。

資金繰りや資金調達・運用をはじめ、会社のお金の管理を担う財務部に対して、経営企画部は経営戦略の立案、中期経営計画・事業計画の策定をはじめ、会社全体の将来性や方向性をデザインする部署です。経理のように明確なルールのもと、1円単位の数字を見るのではなく、会社独自の数値管理のもと、数億円単位で物事を見る立場。いずれも会社にとって重要な役割を担っているわけですが、当時の僕は自分の大雑把な性格を思うと、経営企画の仕事のほうが向いているような気がしたのです。

とはいえ、経営企画に異動するには何をすべきか見当もつきませんでした。僕個人の意思だけで異動できるはずもないし、前例も明確なフローもない。異動に関する意思決定がどのように行われるのかも知り得ないのです。そうこうしているうちに、入社半年が経過しました。しかし、チャンスは突然に訪れたのです。

あるとき会社のイベントで、各部署が集まるBBQがありました。僕が火おこしをしていると、偶然にも経営企画部のお偉方に話しかけられたのです。これは絶好の機会…!僕はそれとなく、今後の経営企画部が求める人材像を尋ねてみました。返ってきた答えは、「英語ができて海外の会計基準を心得ている人材」。

帰宅するやいなや、僕は再び資格探しに取りかかりました。そこで見つけたのが“USCPA”———— 米国公認会計士の資格でした。日本の公認会計士とは試験制度が異なり、受験科目ごとに合格を積み上げられる仕組みのため、計画次第では最短1年程度で取得できると言われています。しかし、受験にかかる費用が高額でした。なんと4科目の受験料だけで20万円!これに予備校や教材費、諸々の手数料を合わせると、約100万円が必要だったのです。新入社員の僕に、そんな大金はありませんでした。とはいえ、この悶々とした日々からは一刻も早く脱出したい…!悩んだ末に、僕は教育ローンを組む決断をしました。この資格を糸口に、経営企画部への異動のチャンスを手にしたい…そんな一縷の望みに懸けたのです。

社会人2年目、念願の経営企画部への異動を果たす

しかし、仕事をしながら資格を取るのは想像以上に困難でした。会社から取得を求められているわけでもない。合格したとて評価されるかも未知数。そんななか、仕事で疲れて帰ってきて、勉強を継続する気力がありませんでした。高額な受講料を費やした専門学校への足も遠のき、ついに1科目も合格できないまま、僕は社会人2年目を迎えたのです。

予期せぬチャンスが訪れたのは、また突然のことでした。あるとき社内で海外企業との合同プロジェクトが始動したのです。同プロジェクトのマネージャーは、僕がBBQで話をした経営企画のお偉方でした。経理からも数名がアサインされることになり、僕は真っ先に立候補!無事にプロジェクトチームへの滑り込みを果たしました。

僕に任されたのは、分厚い英文契約書を読み込み、想定される会計的なリスクを洗い出すこと。かなりの文章量かつ短納期だったので、「できる範囲でOK」というのがマネージャーからのオーダーでした。つまり、ほとんど期待されていなかったのです。一方で、僕は張り切っていました。今こそ経営企画部のお偉方に、自分を売り込むチャンスだと捉えたからです。さっそく徹夜で契約書を読み込み、気づいたリスクをまとめました。さらに専門的な質問も添え、自分をアピールすることも忘れませんでした(笑)。結果的に僕の気合いは空回り。なんの成果も残せぬまま、プロジェクトは解散を迎えたのです。

しかし、その3ヵ月後…。僕は突然、経営企画部への異動を言い渡されました。当時社会人2年目でしたが、どうやら直近のプロジェクトでの僕の働きが、経営企画部のお偉方に評価されたようでした。僕の渾身のアピールには関心などなさそうだったのに、実はよく見られていたんだな…。異動を熱望したその日から、自分なりに準備をしてきて良かったと思いました。だからこそ、ふと訪れたチャンスに飛びつくことができたのです。少なからず国際会計資格の勉強をしていたことで、いざ英文契約書を読み解く際にも苦労せずに済みました。結果的に資格取得には至らなかったものの、無事に目的を果たすことができたのです。

初めての経営企画業務、未知のサービス、過度のプレッシャー

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん異動当初の僕の業務は、事業計画を中心とした予実管理と経営幹部への月次報告でした。念願かなってウキウキしていた一方で、さっそく想定外の壁に遭遇しました。1つ目は、僕が担当する事業について。経理では法人事業の担当でしたが、経営企画に異動後は、まさかのコンシューマー事業を任されたのです。つまり、それまで担当していたサービスの知識は通用しないということ。新たなサービスをゼロから学びつつ、経営企画の業務を習得する必要がありました。初めての経営企画業務、未知のサービス、過度のプレッシャー…。とはいえ、やっと手に入れたチャンスですから、絶対に逃したくありませんでした。

さて、月次報告は経営の観点から、「1日でも早く」が求められる種類の業務です。スケジュールは非常にタイトなため、作業はいつも深夜にまで及びました。気づけばデスクには僕ひとり…毎月そんな生活が続いていました。異動してから数々の失敗を経験し、あまりの重圧に胃が痛んだり、眠れないほど悔しい想いも味わったりしました。しかし、僕はなんとか最初の半年間を耐え抜くことができたのです。

振り返ると、社会人2年目の僕なんかに、よくもあのようなハードルの高い仕事を任せていただけたものだと改めて思います。その期待値の高さには過去に経験がないほどの重圧を感じましたが、そのおかげで僕は確実に成長できました。そのようなチャンスをくださった経営企画の上長をはじめ、会社でお世話になったすべての人々に、今も心から感謝しています。

社内の人事制度を利用して、新規事業開発部への異動を叶える

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん経営企画部で迎えた社会人3年目の春、僕は新たに外部向けの決算開示(IR)を担当することになりました。自分が手がけた資料が社長の決算プレゼンで使われたり、HPの決算開示で発表されたり…!仕事はますます忙しくなり、作成した資料に対するレビューを深夜1時に役員から受け、そこから修正作業を終えて朝方にタクシーで帰る日もありました。仕事はもちろん大変でしたが、かつて自分が望んでいた“規模の大きな仕事”ができるようになっていたのです。他社に就職した友人や同期よりも一歩先に進んでいるような実感もあり、当時は優越感さえ覚えていました。

しかし、それからほどなくして、僕は新規事業開発部に異動することになります。社内の人事制度を利用して、自ら異動を希望したのです。まさか自分が経営企画に異動してから1年半で出ていく選択をするなんて、当初は思いもしませんでした。そのきっかけは、僕がプライベートで関わっていたNPO活動での気づきにありました。ボランティアでの活動ですが、活動を拡大させていくにあたり様々な出会いや出来事がある中で、経理・経営企画ともに大企業のバックオフィスでキャリアを歩んでいた自分には、ビジネスサイドの視点が大きく欠けていることを痛感させられる出来事があったのです。いい年して人前で泣きました。

それを機に、やりたいことが一変しました。“規模の大きな仕事”に満足していたはずの自分が、たとえ小規模でも、よりビジネスの現場視点が身につくような仕事がしたいと望むようになったのです。そんな理由から、僕は新規事業開発部への異動を希望し、書類選考・役員面接を経て、お世話になった経営企画部を後にしました。

入社4年目にして、国内外のベンチャー投資業務に従事する

新規事業開発部での業務は、ソフトバンクが新たに進出する分野・業界のベンチャー企業投資(M&A)でした。国内、海外のベンチャー企業の経営者を相手に、投資条件の交渉を行う仕事です。また、投資先企業のオフィスに足を運び、経営企画業務の支援も担いました。当初は親会社とベンチャーの違いに、大きな衝撃を受けたものです。社員1万人以上、最新鋭のシステムで管理されていた親会社に比べて、ベンチャーといえば社員20人程度、売上はおろか、まだ商品さえリリースしていない企業もありました。キャッシュに余裕はありませんから、数値はすべてExcel管理、そして窒息しそうな狭いオフィス…。僕が新卒で入社した親会社の環境とは、すべてがかけ離れていたのです。ベンチャー企業のリアルに触れる環境に飛び込んだことで、僕はかつて経験したことのないほどの近距離でビジネスの現場を感じる機会を得ることができました。

業界への課題意識や志を同じくする仲間と、NYCを創業する

その後はソフトバンクを退職し、大手会計事務所グループのアドバイザリーファームにてM&A戦略、ビジネスデューデリジェンス、PMIなどのアドバイザリー業務を経験し、PEファンドに転職後は、中小企業を対象とした投資業務に従事しました。

僕は過去のどの時点においても、人や経験に恵まれたことを実感する一方で、拭いきれない葛藤も同時に味わってきました。たとえば、ソフトバンク時代に経験した、国内や海外のスタートアップ投資では、資金調達を求めて僕らのもとへ訪れた企業の多くが崩壊していく現実を目の当たりにしたのです。一般的に多くのベンチャー企業経営者が、起業当初は大きな夢を語ります。しかし、実際にビジネスがスケールする事例は少なく、なかには調達した資金を、パーティーなどに溶かしてしまうケースなどもあったりします。

僕としては、父親が中小企業を経営している影響もあり、もっと地に足のついた企業や事業に投資し、社会のために本質的に役立つM&Aにコミットしたいという想いがありました。後にプロフェッショナルファームに転職し、クライアントのコンサルティング業務を担った際にも、本質的な課題解決を追求できない現実に葛藤を覚えたものです。コンサルティング業務は、あくまでサービス業。契約を維持し続けるためには、痛みを伴う課題解決を提案することよりも、クライアントの期待値を調整し、満足度を高めることのほうが求められる要素だったのです。そして、PEファンドに転職した後も、自己矛盾を感じるシーンが多々ありました。

ファンドである以上、投資家の意向に応えるために、短期で売却しなければならない局面に数多く遭遇したのです。業界の構造や傾向として、中小企業のためにならないタイミングで売却を迎えるケースが、往々にして存在していました。

それでも当時は自分が起業することなど、特に考えていませんでした。きっかけはPEファンド時代、同僚の尾上と堀口と居酒屋で飲んでいたときのこと。2人とも、僕と同じような課題意識や情熱を持っていることがわかり、意気投合したのが始まりでした。

2027年までに、中小企業100社の事業承継を目指して

NYC株式会社 代表取締役社長 中塚 庸仁さん自分たちが起業するからには、今度こそクライアント・ファースト(中小企業・ファースト)を貫きたい…!そんな志だけで創業した僕らに、当初は社会的信頼も実績も資金もありませんでした。しかし、気づけば投資先企業も社員も増え、創業時に3人で掲げた目標である「100社の事業承継」に向けて少しずつ近づいています。

「設立間もない」「若すぎる」「実績がない」…M&Aの資金調達に向けて金融機関を回り始めた頃は、50以上の金融機関から立て続けに断りを受けました。それもそのはず…オフィスも3人で手一杯というような環境で、とても信頼できる企業には見えなかったことでしょう。それでも僕らを信頼し、数ある選択肢のなかから僕らをパートナーに選んでくださった最初の投資先企業様に出逢えたときには、震えるほどの喜びや感謝と共に、背筋が伸びる想いがしました。

前職で中小企業投資の経験をしてきた僕らが起業した理由は、この業界に新たな価値を創出したいという想いがあったからです。だからこそ、創業時から自己勘定投資にこだわり、投資先企業の本質的な事業の成長・継続を目指すことをポリシーとしてきました。企業の将来を見据えた中長期の伴走支援と確実な事業承継の先に、初めて僕らの事業の成長と継続がある。そこには、かつての僕が感じてきたような矛盾や葛藤はありません。これが、NYCが掲げる「つなぐ投資」のスタイルなのです。

NYCグループには現在、金属加工や設備工事、学習塾、留学エージェントをはじめ、さまざまな領域において独自性を持つ魅力的な投資先企業が名を連ねています。そこで僕らは、従来の投資会社にはない取り組みを数多く試行してきました。その一つが、後継社長や投資先企業の経営者を対象とした勉強会。これは、異業種の経営者同士が悩みや課題を共有し、同じグループとして繋がりを育む場としても機能しています。実際に勉強会を通じて新たな取引や協業が生まれ、具体的な成果にも繋がっています。

最近では、このような実験的な取り組みに臆せずトライしていく僕らのマインドが投資先企業にも波及し、現場レベルでの改善や挑戦が加速していることを実感するようになりました。中小企業の元来の強みである独自の技術や歴史、地域に根差した価値に加えて、新たな挑戦や変化を愉しむカルチャーが醸成され、次世代に向けて進化していく…。

それはまさに、僕自身が求めていた仕事…地に足をつけながらも、未来にワクワクできるような価値の創造に他なりません。僕らは2027年までに100社の事業承継を目指していますが、その数は日本全体から見たら、ほんの一部に過ぎないのです。中小企業は全国に330万社以上あり、そのうち約3分の1の企業が後継者不在の状況にあります。僕たち単独の力では、日本の事業承継問題の解決は不可能なのです。だからこそ、100社承継の目標は、あくまで業界全体を巻き込みながら、日本の事業承継問題を解決するための一つの通過点だと思っています。

今年8月、僕らは事業承継者の成長を支援する実践的コミュニティ「B組」の本格運営を開始しました。本コミュニティは、事業承継後の孤独感に悩む20〜40代前半の若手経営者を対象に、同じ立場の経営者同士が学び合える環境を提供することを目的としています。事業承継問題の解決には、このような“支える側”の仕組みを増やしていくことも重要だと感じています。事業承継を成功させることはもちろん、“誰もが挑戦できる社会”を、中小企業の現場から創出していく…。このようなビジョンを描きながら、今後も一歩一歩、地に足のついた支援を続けてまいります。

 

◆ 編集後記 ◆

取材に伺ったのは、茅場町駅から徒歩4分の立地にあるNYCの本社オフィス。社長の中塚さん、広報の亀山さんが迎えてくださった。お二人に共通する印象は、はつらつとしていて明るい!終始ユーモアに溢れた回答をくださり、笑いの絶えない取材となった。

NYCの独自性の一つに、筆者は「情報発信力」が挙げられると思う。テキストメディアのnoteや動画メディアのYouTubeを通じて、自社の情報発信が盛んに行われている。その内容は、役職員のプロフィール、日常業務の密着取材、投資先企業の紹介、後継社長との関わりなど、実に多岐にわたる。なかには中塚社長の地元やご家族まで登場する回もあり、会社の雰囲気や役職員のキャラクター、中小企業投資のリアルが詳細に伝わってくる。ちなみに中塚社長はかつて個人ブログの発信もされており、そこから彼の学生時代の記録にまで遡ることができる。本稿ではご紹介できなかった過去の興味深い人生エピソードが赤裸々に記されており、気づけばかなり読み進めてしまった。中塚社長のキャリアだけを見れば、誰もが超エリートだと感じることだろう。しかし、学生時代のブログを読むと、わりと無鉄砲な一面や、人並み以上のコンプレックスを抱えていた側面も見受けられ、なんだか急に親近感を覚えてしまった(笑)。YouTubeで公開されている社内会議において、メンバーに鋭いフィードバックを行っている現在の社長の姿に、今となっては違った視点を見出すことができる。それは、中塚社長ご自身が、これまで自己の価値を高めるために数々の挑戦をし、葛藤を味わい、もがき続けてきた経験があってこその今の姿なのだろうということだ。

さて、日本における中小企業投資の領域は、政府支援、事業承継問題、地域創生、DX/GXなどの追い風もあり、今後の拡大余地のある成長マーケットである。そのなかでもNYCが行う「つなぐ投資」は、中小企業の「後継者不在の問題解決」と「事業の継続・成長」を本質的に追求する、社会的意義の高い事業だと感じる。投資が成功すれば、得られる利益も社会的なインパクトも大きい。その一方で、投資先企業のバリューアップ支援の現場は、その一部がYouTubeにも公開されているが、想像以上に泥臭い。会社経営には、日々さまざまな問題が生じるものだ。投資先企業の経営に深く入り込み、厳しい局面においても冷静な頭と心で経営課題の解決、成果にコミットしていくためには、心身ともにタフさを要することだろう。NYCには筋トレや格闘技をはじめ、没頭できる趣味を持っているメンバーが多いと聞く。つまり、この仕事で活躍し続けるためには、基本的な胆力の強さはもちろん、趣味や余暇を通じて脳や感情をリセットし、前向きに現場に戻れるような能動的な自己マネジメントスキルも鍵になりそうだ。筆者が訪問時に感じた明るくはつらつとした“空気”は、組織全体のそのようなマインドが醸し出しているものかもしれない。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2025年10月20日