株式会社ブレイブソフトは、『首相官邸公式アプリ』をはじめ、テレビ局や著名人とのタイアップ・アプリなど、業界に先駆けて多数のヒットアプリを開発してきたソフトウェアベンチャーだ。なかでも550万ダウンロードを誇る人気お笑い系アプリ『ボケて』や、TV業界NO.1アプリ『TVer (ティーバー)』は、同社の代表的な開発実績である。代表の菅澤氏は、今でも現役のエンジニアであり、学生時代に仲間と経験した「ものづくり」の楽しさを原点に、技術者主体・若者主体の会社づくりに創業時からこだわってきた。同社が描くビジョンは、社名『ブレイブソフト』の由来の通り、勇敢なエンジニアが揃った「最強ものづくり集団」として、新たな時代を築いていくこと。現在、自社開発のイベントプラットフォームアプリ『eventos (イベントス)』が、東京ゲームショウや東京モーターショーなどの大型イベントに続々と採用され、従来のイベント業界にデジタル革命を起こしつつある。ビジョン実現に向け、確かな歩みを進める成長企業の代表に、このたび貴重なインタビューの機会をいただくことができた。
開発実績700件以上。国内トップレベルの技術力を誇る実力派ベンチャー。
弊社を一言でいえば、アプリをたくさん制作している会社です。どれだけ「たくさん」かというと、おそらく国内NO.1の実績と言えるでしょう。「アプリ開発実績」というキーワードで検索すれば、1位に弊社の名前が出てきます。創業時から、どこより果敢に開発を手がけてきた結果、確かな技術力が社内に蓄積され、今では多くのご依頼をいただけるまでに成長しました。一方で、既存のアプリに関して見えてきた課題もあります。それは、スマホの中だけで楽しむ世界には、限界があるということ。その点、昨今の代表的なヒットアプリ『Pokemon GO』は、世界中の人々をあらゆる場所へと連れ出し、彼らのリアルな体験までも向上させることに成功しました。スマホの小さな画面を超え、人々の実際の行動に影響を与えたことは、従来のアプリの常識において、非常に大きな進歩です。今後は『Pokemon GO』のように、現実社会にまで価値を創出できるアプリこそ、世の中のスタンダードになっていくでしょう。
そのような観点から、弊社は2014年に自社開発のイベントプラットフォームアプリ『eventos (イベントス)』をリリースしました。フェスやライヴ、体験型エンターテイメントなど、イベント市場は〝コト消費〟の需要増大を追い風に成長を続けており、その消費規模は2017年、16兆6,490億円に上っています。一方で、多くのイベントがまだ、アナログな運営に頼っているのが現状です。紙のチケットをはじめとした数々の非効率は当日の混乱を生み、せっかくの来場者の満足度を下げてしまうリスクがあります。弊社のアプリ『eventos (イベントス)』は、イベント業界のデジタル化を促進し、ワンストップで課題を解決するパッケージサービスです。イベントに特化したアプリのため、運営サイドに必要な機能が充実しており、カスタマイズも自由自在。最短5日のスピード開発に加え、導入コストも業界水準5分の1程度を実現したことで、多くのイベント運営企業様より好評をいただいています。今年9月、アプリのフルリニューアルと同時に「東京ゲームショウ」に採用いただいたことで、一気に注目度が高まってまいりました。国内にほぼ競合がいない今、先行優位性と培ってきた技術力を武器に、事業展開を加速させていく所存です。
少年時代の心に残るエピソード。
生まれは東京、大田区池上です。司法書士の父、看護師の母の共働き家庭に生まれ、姉と妹に挟まれて育ちました。小・中学校時代の記憶で何より印象深いのは、とある近所の「お兄さん」の家に、皆で入り浸っていたこと。当時おそらく20代後半だった〝自称漫画家〟の男性を囲んで、近所の5~6人の仲間で遊んでいたのです。ファミコンをしたり、麻雀や花札、歴史の話を教えてもらったり。ときには、釣りや野球もして遊びました。当時の僕らにとって、大人の世界に触れるのが刺激的だったのでしょう。素性の知れない他人の家に上がり込んでいたわけで、親は心配していたと思いますが…(笑)彼は今、どこで何をしているでしょうか。ケータイもなかった時代で連絡先も知りませんが、再会したら当時のお礼を伝えたいですね。
高校時代は3年生になるまで、怠惰な日々を送っていました。私が進学した法政大学附属高校は、いわゆるエスカレーター式の学校。受験なしで大学まで行ける環境だったので、勉強に励む理由も見出せず、ダラダラ過ごしていました。その高校を選んだ理由も、中学の成績がそこそこ良かったため、試験も論文もなく推薦で決まったから。特に目的もなく高校生活を迎えてしまった結果、とにかく時間を持て余して、麻雀やカラオケ、レスリング部に忍び込んでのK1ごっこなど、どうしようもない日々を過ごしていました(笑)周囲も同じ状況でしたが、同級生には後に有名になった人が結構います。ミュージシャンの秦基博さんをはじめ、経営者や芸人として活躍している人も。思い返せば、彼らは当時から活動していました。あの環境を活かして好きなことを究め、見つけた道なのかもしれませんね。このままではマズイ・・・。私は3年生になってやっと、目を背けていた自分の進路と向き合うようになりました。そんな矢先、法政大学に情報科学部が新設されることになります。幸運にも、1期生として進学できるチャンスがやって来たのです。当時はちょうど、『Windows』が発売された頃。「これしかない!」・・・と運命的なものを感じ、受験を決意しました。そこからは、まるで生まれ変わったかのように猛勉強の日々。たとえ1期生募集の受験に失敗しても、浪人して再挑戦する覚悟で勉強した結果、最終的には全13教科オール5で学年トップの成績を修め、最難関といわれた情報科学部に現役合格することができました。
大学時代のバイトで手がけたシステムが、1,000万円を売り上げる大ヒットに。
入学して1年間は、「ひとまず学生らしいことをしてみよう」と、バイトを6つほど経験しました。引っ越し、ケンタッキーの配達、居酒屋、レストランのホール・・・。街角でケータイを配ったこともありました。いろんな仕事をしてみたのは、自分の世界を拡げたかったから。今でこそ人前で話す機会も増えましたが、当時の私は典型的な理系少年で、どちらかといえば無口なタイプ。多くの人と関わる営業系の仕事ではなく、将来は研究系の道へ進むだろうと思っていたので、街角で見知らぬ人に話しかけるような経験は、今しかできないと思ったのです。ところが、当時の予想に反して、今では飛び込み営業までやっているんですけどね(笑)
大学2年のときに始めたバイトが、今の仕事に繋がる原点となりました。きっかけは、今でいうITベンチャーでプログラミングのバイトをしていた友人に誘われたこと。時代はちょうど、iモードバブルが始まった頃でした。システム開発に必要な「Java言語」が使える人材が社内にいなかったところ、情報科学部の学生だった我々に白羽の矢が立ったのです。初めて手がけたのは、甲子園のシュミレーションゲームのシステム開発でした。企画会社と共同事業で開発側を担当し、学生チーム5人で打合せから参加。試行錯誤しながら、一心不乱に開発に取り組みました。いくら情報科学部の学生とはいえ、実際のところは授業で習ったくらいのレベルです。ようやく出来たシステムは、結果的にはバグだらけ。なんと野球のゲームが、600回裏まで進んでしまったこともありました(笑)一方でユーザーは急増の一途。月額300円の課金アプリに毎日数百人の登録が殺到し、問合わせのメールが何百通も来て、バグの修正に泊まり込みで対応しました。怒ったユーザーからの電話に、開発責任者として対応した経験もあります。まさに、授業では経験できない実践の世界で、自然と技術が磨かれていきました。当時は仲間とバンドをやっているような感覚で、毎日が本当に楽しかった!ものづくりへの熱が炸裂し、とにかく夢中になれました。もともとは、4年生になったら就活で、どこかのシステム会社に就職し、入社3年くらいは雑用なんだろうな・・・と、決まったレールしか描けない環境にいたので、こんなふうに生きて行く道があるなら、心から最高だと思えました。最終的に、ピーク時にはユーザー登録数が3万人に達し、月1,000万円を稼ぐヒットアプリに成長。それでも私たちの時給は1,000円のままでしたが、それさえ忘れるくらい没頭していたのです。卒業する頃には学生チーム単体で、数々のプロジェクトを請け負うまでに成長していました。
学生時代から一緒にやってきた仲間3人で、卒業後すぐに起業しました。1年後には10名規模へと成長したのですが、幹部メンバーと私との間で、方向性の違いが深刻な状態になり、1年で独立してブレイブソフトを創業しました。当時はまだみんな学生感覚の延長で無理に仕事をとってきたり、3人で同額ずつ資金を出したため会社の方向性がまとまらなかったりしていました。ものづくりの理想を追求するため、自分の資金だけで新たに0からブレイブソフトを立ち上げました。そしてまた、その際に僕についてきてくれた友人メンバーともトラブルが発生します。過去に『プロジェクトX』ばかり観ていた私は、「ソフトウェア業界における『Honda』を創りたい!」と、ものづくりへの強烈な熱意に燃えていました。とにかく成功めざして一直線。会社に泊り込みの生活が続いていましたが、まだまだ前進する意気込みでいっぱいでした。一方で他のメンバーは、これ以上のハードワークも大成功も求めていないのが本音のところ。次第に話も合わなくなり、勤務態度も悪くなり、午後から出社してくるような状態になっていました。ある日ふと社内を見渡したとき、誰も楽しそうに働いていないことに気がつきました。ものづくりは本来、楽しいことのはずなのに…。非常にいたたまれない気持ちになったのを覚えています。今でこそエンジニアが脚光を浴びる時代になりましたが、当時はまさに裏方の職業。たとえスケジュール的に破綻していても、言われた通りにやるしかないのです。このまま続けていても、理想の会社にはならない…。そう思っていた矢先に、幹部メンバーと意見が衝突。ある日突然、中核メンバー4人と連絡がつかなくなってしまったのです。当時の私にとっては、生きるか死ぬかの大ピンチ。1,000万円の融資を受けたばかりだし、大手プロジェクトの真っ最中。社内には新人しかいません。本当に困りましたが、このとき運良く中国進出のきっかけを掴み、なんとか危機を脱出。あらためて当初の理想を想い起こし、0から再出発したのが現在のブレイブソフトです。
新たなスタートと、社名に込めた想い。
このときの経験から、今度こそエンジニアにとって理想の会社にしようと決意し、経営の勉強も真剣に始めました。学生時代、野球ゲームのシステム開発に没頭したときの楽しかった記憶・・・。それが、私の仕事の原点でした。プログラムは、やっぱり面白い世界だし価値がある。仲間と楽しんで取り組めば、必ず良いモノができるという確信もある。しかし、世間を見渡すと、エンジニアが働く現場は当時、どこも不幸そうに見えたのです(笑)それは結局、エンジニア自身の在り方にも原因があると私は考えました。基本的に好きなことしかやらない。「プログラム」しか分からない。営業もできなければ、経営に関する知識もない。保守的な人材が多く、チャレンジすることも少ない・・・。しかし、自ら変わらなければ、理想の環境は得られません。目の前のプログラムから視野を拡げ、ビジネス全体を見渡して、自分の役割と意義に責任を持てるようになったとき、初めて好きなことが実現できるのだと思います。そんなエンジニアを目指すうえで、最も必要になるのが「勇気」です。勇気を持ってチャレンジしていくエンジニア集団をつくりたい。社名の『ブレイブソフト』には、そんな想いが込められています。
菅澤代表が志す、ブレイブソフトの未来。
弊社は今年、創業13年目を迎えました。グループ130名規模への成長、成都・ベトナム・北京の支社設立、『ボケて』『eventos (イベントス)』などの自社事業の飛躍、『TVer (ティーバー)』『首相官邸公式アプリ』等の有名アプリの開発など、常に「新しいものへの果てしない挑戦」を理念に掲げ、仲間と共に成長を続けてきました。弊社には、創業時から掲げ続けているビジョンがあります。それは、ソフトウェア業界において、『Honda』や『SONY』のような存在になること。ハングリーなエンジニアたちが新規事業を続々と立ち上げ、IT技術を使って社会にイノベーションを起こすことで、世の中をもっと便利に、もっと明るくしていく…。そんな未来を見たいと思っています。まさに、最強のものづくり集団。国内最高峰のソフトウェアベンチャーとしてのブランドを確立することで、ものづくりを熱望する若い技術者達の憧れの企業となり、彼らに最高の環境を提供していきたいですね。
ビジョン実現に向けた第一歩として、まずは2019年までに『eventos (イベントス)』を売上4億円の事業へと成長させ、2020年の上場を目指します。まだまだアナログなイベント市場を変革できる余地は大きく、市場の成長と先行優位性に背景に、1,000億円規模のビジネスも夢ではないと考えています。まずは日本における「イベント×アプリ」「イベント×デジタル」の常識化を弊社が主導し、業界のスタンダードとなる立ち位置を得た先には、中国や北米への海外進出にも積極的に挑戦していく所存です。
◆ 編集後記 ◆
今回のインタビューは、田町にあるブレイブソフトさんの本社へお伺いした。オフィスの壁やドアには、自社開発アプリのアイコン画像が所々に散りばめられており、エンジニアの皆さんの開発愛が感じられる環境だった。
さて、取材時間ぴったりに現れた菅澤代表。やさしい笑顔と温厚そうな第一印象とは裏腹に、とてつもない野心家である。「やるからには最高峰。」・・・同社が目指す未来像を伺うと、この一言が返ってきた。彼が描く「最高峰」とは、かつての『Honda』や『SONY』、今でいう『Google』のように、世界にイノベーションを起こすことで、自社ブランドを築き上げた企業たちと肩を並べることだ。数々のヒットアプリをリリースし、順調に成長を続ける同社だが、設立13年目を迎えるまでには、多くの試練を乗り越えてきたそうだ。たとえば、学生時代の仲間と起業したときの、幹部メンバーの出社拒否事件。さらに今から数年前にも、従業員の半数が、2年連続で退職してしまった辛い時期もあったという。原因は、代表の上昇志向についていけず、社内に反発が起きてしまったこと。しかしそのたびに、菅澤代表は根気強く課題に向き合い、組織づくりに関する勉強や、具体的な改善策を実行してきた。たとえば現場の社員から、〝ブレイブソフトらしさ〟をヒアリングし、会社の価値観を明文化した「ブレイブ・スピリット」。これにより、同社のビジョンや社風に合った人材採用の仕組みづくりに成功。評価基準も明確になり、社員の満足度も上がったそうだ。ちなみに最近、学生時代に甲子園ゲームのシステム開発を共に手がけた友人の一人が、アメリカ留学とマイクロソフトでの職歴を経て、同社に入社してきたという。一緒に開発に没頭していた学生時代に戻ったようで、非常に嬉しいことだという。取材を通して感じたのは、菅澤代表の一連の取組みの根底には、技術者たちへの愛があること。今も現役エンジニアとしてコードを書いている彼は、自己の生活の安定はもちろん、ものづくりへの個人的な欲求は充分に満たされ、次のステージに来ている感覚があるという。代表自身が20代のときに感じた、プログラミングの楽しさと、いいものを作りたいというピュアな気持ち。その想いを存分にカタチにできる会社は、現実には少ないそうだ。「昔の自分のようなハングリーな若者に、開発に存分に没頭できる最高の環境を提供したい」…会社のビジョンと社員の自己実現が一致するような環境を目指す使命感が、今の代表の大きな原動力になっているようだ。
取材:四分一 武 / 文:アラミホ
メールマガジン配信日: 2018年12月10日