愛媛県を本拠に、1府6県(愛媛・秋田・大阪・岡山・香川・徳島)に13拠点を展開するハウスメーカー、株式会社コラボハウス(本社:愛媛県松山市、2008年設立)。昨今の住宅業界では住宅着工戸数が減少し、休廃業に追い込まれる企業も増えているなか、同社の売上は直近15年間で50倍以上に成長。四国に本社を置くハウスメーカーのなかで、No.1の施工棟数実績を誇っている。また、コロナ禍前後の4年間で、社員数も2倍以上に増加。若年層の人口流出が深刻な状況にある四国において、特異な存在感を放っている。さて、同社の代表取締役を務める松坂氏は創業者ではない。国内大手鉄鋼メーカーのエンジニア、外資系大手コンサルティングファームのシニアマネージャーを経て、2024年10月より株式会社コラボハウスの経営に参画し、創業者より後継を託された人物である。松坂氏は入社当初、愛媛県に縁もゆかりもなければ、家づくりに関する知識や経験もなかった。まったくの異業種のキャリアを積んできた彼が、なぜ同社の経営を担うことになったのか。また、事業を継承する経営者として、どのような将来ビジョンを描いているのか。本稿では、松坂氏の幼少期にまで遡り、その人物像を明らかにしながら、同社の今後の事業展開について紐解いていきたい。

施工棟数、四国エリアNo.1!業界の商習慣と異なるビジネスモデルで急成長

株式会社コラボハウス 代表取締役 松坂 直樹さん私たちは、「設計士とつくるデザイナーズ住宅」をコンセプトに、完全自由設計の注文住宅を手がけるハウスメーカーです。営業担当者を置かず、設計士がお客様と直接お打合せを行い、土地探しから設計、施工、アフターメンテナンスまでを一貫してサポートしています。このようなスタイルは、今でこそ一般的に知られるようになりましたが、実は2008年の設立当初は弊社が業界の草分け的存在でした。「3回建てて初めて満足のいく家ができる」…家づくりの難しさがこんな言葉で表現される住宅業界において、私たちのような注文住宅ビルダーがお客様に提供できる最大の価値…それはやはり、お客様のご要望に沿った理想の住まいを実現することに他なりません。そのためには、販売のプロである営業ではなく、家づくりのプロである設計士が対応するのがベストなのです。そもそも多くのお客様にとって、家は一生に一度の大きな買い物。3回も建て替えるわけにはいきませんから。営業担当がいないだけでなく、我々は自社でモデルハウスを持ちませんし、土地も保有しません。このように、業界の商習慣と異なるスタイルを採用することで、弊社はミニマムの固定費で質の高い住宅の提供を実現させ、大手が参入しにくい新たな市場を開拓してきました。たとえ競合他社では採算が取れないような売上高や施工棟数であっても、弊社のビジネスモデルなら充分に利益を残すことができるのです。そして、最も特徴的な強みは、営業せずとも集客ができる点にあります。弊社が手がけたデザイン性の高い住宅の施工事例やこだわり、コンセプトなどを魅力的に発信していくSNS戦略や、全国13拠点で開催されている無料相談会への動線など、Webを通じた集客マーケティングの仕組みが確立されているのです。その他、既存のお客様からのクチコミやご紹介、ご自宅の完成見学会などを通じて、コラボハウスを選んでくださるお客様も増えています。おかげさまで、弊社は四国エリアに本社を置くハウスメーカーにおいて、No.1の施工棟数実績を誇る企業へと成長することができました。

親泣かせな子どもだった、やんちゃな小学生時代

株式会社コラボハウス 代表取締役 松坂 直樹さん生まれは広島県広島市。幼い頃から“やんちゃ坊主”だった私は、両親の手を焼かせる子どもだったと思います。3歳上の姉ともケンカをしてばかり。それでも空手を始める5歳になるまで、かなり泣き虫だったようです。すぐに泣くし、なんだか内股だし…(笑)。そんな私の女々しさを心配した両親が、強い子に育つように空手を習わせたそうです。

小学生時代には、友達同士の間で“度胸試し”のような遊びが流行っていました。どれだけ高所から飛び降りられるかを、みんなで競い合うのです。あるとき僕らは近所の公園で、高く積み上げられた土管の山を見つけました。みんなが頂上に腰かけ、心の準備をしていたとき…なんと私は助走をつけて、勢いよくジャンプしたのです!その勇敢さと引き換えに、前歯を折るという代償を払うことになったのですが…(笑)。また、自分の大切なヨーヨーを6年生に盗まれたときには、怒って教室まで乗り込んだこともありました。まだ4年生だった当時の私は、結果的にボコボコにされたんですけどね(笑)。

中高時代。モテるために始めたダンスが、意外なところで役立つ特技に!

株式会社コラボハウス 代表取締役 松坂 直樹さん小学6年生で受験をして、広島市にある私立の中高一貫校(修道中学校)に進学しました。中学時代に入ったのは弓道部。猫背を矯正できるうえに、必ず全国大会に出場できると聞いて選んだ部活でした(県内に弓道部がある中学校が他になかったため)。入部後は実際に、武道館で開催される全国大会に広島県代表として出場!礼儀や規律など、学びの多い競技ではありましたが、中学3年生の頃にはすっかり熱が冷めていました。…というのも、当時といえば絶賛思春期。男子校に通っていた私は、もっと女の子からモテる手段を探していたのです(笑)。そこで辿り着いた答えが、なぜか“バク転”を極めること!アイドルみたいにバク転ができれば、きっとモテるに違いないと思ったのです(笑)。そんな短絡的な思考から、仲間と自主練をしてバク転をマスター!…しかし、僕らが2ヵ月かけて習得した技を披露する機会がないことに、そのとき初めて気づいたのです(笑)。せっかく身につけたバク転は、ダンスを通じて見せればいい…そのような結論に至るまでに、さほど時間はかかりませんでした。当時はちょうど、ガレッジセールのゴリさんVSナイナイ岡村さんのブレイクダンスバトルがTVで放送されていた頃。まだYouTubeもない時代でしたが、インターネットで海外のダンス動画などを見ては、夢中で振りを研究していましたね。仲間で集まって練習したり、文化祭で発表したり…とにかくブレイクダンスに熱中した高校時代でした。モテたかどうかは別として、後に海外を旅したときにはダンスが大いに役立ちました(笑)。たとえ言葉が通じなくても、世界中の人々と一瞬にして仲良くなれるのが音楽の力なんですね。さすがに今は踊ることはなくなりましたが、自分の特技が思わぬところで役立つ経験をしたので、あのとき熱中して良かったと思っています。

宇宙航空関係の職業に憧れ、工学部機械航空工学科に進学

高校2年生の冬、文化祭でのパフォーマンスを終えると、一気に受験モードに突入しました。それまでは、ひたすらダンスに没頭すると決めていたのです。将来は、宇宙航空関係の仕事に就きたかった。漠然とではありますが、JAXAの宇宙航空研究開発などには憧れていましたね。第一志望は九州大学工学部でしたが、全国模試では本番ギリギリまでE判定!特に数学には苦戦したものの、無事に合格することができました。

世界を巡るバックパッカーの経験が、将来の進路を決める転機に

株式会社コラボハウス 代表取締役 松坂 直樹さん人生初、地元を離れて念願の一人暮らし!しかし、大学入学後の3年間は、振り返ると漫然と過ごしてしまったように思います。転機が訪れたのは、ようやく4年生を迎える頃。周囲の仲間が一斉に就職活動を始めたことがキッカケでした。将来の進路について真剣に考えるようになったせいか、友人たちの顔つきや話題は、それまでとは別人のように変わっていました。その変化を目の当たりにした私は、とてつもなく焦ったのです!当時は既に、大学院への進学が決まっていました。自分があと2年も学生でいる間に、社会人経験を積んだ彼らとは、追いつけないほど差が開いてしまうのではないか…。そのような危機感に震えた私は、何か特別な経験値を積む機会を模索しました。就職組とは異なる方向性で、学生だからこそできる価値のある体験…そこで辿り着いた答えが、バックパックを背負って世界を回ることだったのです。

約17ヵ国を旅したなかで、最も印象に残っている国。それは、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動の最中に訪れたエジプトでした。治安が悪化していた当時のエジプトに日本からの直行便はなく、わざわざ訪れる観光客も少なかった時代。現地は観光客を騙そうとする人々で溢れていました。そのなかには、まだ4~5歳くらいの子どももいたのです。彼らはしきりに観光客の私を、どこかへ誘導しようと話しかけてきました。ピラミッドはすぐそこに見えているのに、入口は別の場所にあると主張するのです。それは明らかに、観光客を騙すための手段として、大人たちが幼い子どもに教え込んだ嘘でした。私はこの光景に大きな衝撃を受け、帰国後も彼らの姿が頭から離れませんでした。あのとき自分は、どうすべきだったのだろう…?子どもたちが求めていたのは、ほんの数百円のお金です。いざとなれば、騙されたと思って渡してあげることもできました。でも、それが本質的に彼らのためになるとは、どうしても思えなかったのです。

この経験が、後に自分の進路を決めるうえでのターニングポイントになりました。豊かで平和な日本に生まれたことに改めて感謝すると共に、電気やガス、水道をはじめ、日本の整備された社会インフラに比べて、圧倒的な格差が存在する国や地域が世界にあることを、身をもって知ったのです。そのような真実に触れた今、いったい自分に何ができるのか…?人生で初めて、見える世界が変わったような感覚がありました。将来は、日本の技術力を通じて、発展途上国の社会インフラを整備するような仕事がしたい…。インフラ整備の支援を通じた現地の本質的な経済発展に寄与することが、あのとき出逢った海外の貧しい子どもたちを救うことにも繋がると思ったのです。そのような視点を軸に就職活動を行うなかでご縁をいただいたのが、JFEスチールのエンジニア職でした。

製造現場の方々から教えてもらった、仕事における大切なこと

株式会社コラボハウス 代表取締役 松坂 直樹さん入社後は製造技術エンジニアとして、鉄鋼製品の製造プロセスの最適化や品質管理・改善、操業管理・マネジメント、新技術・設備の導入など、多岐にわたる経験を積むことができました。この業務の本質は、人を動かすためのコミュニケーションにあることを、現場に入って改めて学びましたね。たとえば、製造ラインでトラブルが生じたとき、私のような総合職の人間が規定通りの作業指示を行っても、現場はそう簡単には応じてくれないんです。いくら論理が通っていても、指示系統の仕組みが整っていても、結局のところ現場を動かしているのは人。だからこそ、相手の懐に入っていくようなコミュニケーションや、日頃からの信頼構築が重要になることを学ばせていただきました。

念願の海外プロジェクトに参画するため、インドへ飛ぶ

日本の技術力を通じて海外支援を行いたい…上司や人事に恥ずかしげもなく伝え続けていた私は、入社3年目でインドの製鉄所の立ち上げに携われることになり、現地に飛びました。駐在先は、バンガロールから北へ車で約5時間。岩と砂しかないような広大な僻地に、製鉄所をつくるプロジェクトが始まっていたのです。私は新たな製造ラインを立ち上げるために、技術者として参画することになりました。

インドでの生活には、想像を超える厳しさがありました。何よりまず、食が合わない…。食あたりや水あたりを起こして病院に通うのは日常茶飯事でしたし、あのときの苦しさを思うと、今でもインドカレーが食べられないほどです(笑)。労働環境も、日本とは比較にならないほど過酷でした。製鉄所って、とてつもなく広いんですよ。たとえばJFEの倉敷製鉄所の敷地は、東京の千代田区とほぼ同じ広さなんです。製鉄所を中心に、ひとつの町が成り立っているようなイメージですね。インドの製鉄所にもホテルやレジデンシャルエリアがあり、私は敷地内にあるアパートに住んでいました。業務時間中は、その巨大な製鉄所内を朝から晩まで歩き回ります。1日だいたい3万歩以上!それでも各現場に顔を出さなければ、工事がまったく進まないのが現実なんです。インド人の皆さん、工程会議では「すべて順調」と報告をくれるのに、いざ現場に行ってみると、実際には何ひとつ進んでいないんです(笑)。自分の落ち度を認めたらクビになってしまうので、みんな会議では当たり前にごまかすんですね。私が海外で経験した日々の業務の実態は、そんな闘いの繰り返しでした(笑)。それでも約8ヵ月間の駐在を通じて、人生において本当に貴重な経験をいただいたと思っています。また行きたいかと問われると、答えはNOですが…(笑)。20代だったからこそ耐えられたというのが正直なところですね。

インドから帰国後、データサイエンスの魅力に目覚める

入社前から描いていた、日本の技術力を通じて海外を支援するという目標。それがインドに製鉄所をつくるという形で実現した私は、帰国後に燃え尽き症候群のような状態に陥っていました。そのときに当時の上司が、新たなテーマを与えてくださったんです。それが、当時もてはやされていた、ビッグデータ活用に関する研究でした。データサイエンスを学ぶために研究所に派遣された私は、あっという間にその分野の面白さにのめり込んでいきました。休日も図書館に籠って、朝から晩まで統計学を勉強していたのです。新しい統計手法を学んだり、自分がつくったプログラムを実際のデータで回してみたり…新たな視点が得られる感動や、まるで謎解きのような面白さに夢中になり、時間を忘れて没頭していました。データサイエンスは業界を選ばず、たとえば医療業界であれば病気の早期発見、スポーツ業界であれば選手のパフォーマンス分析、音楽業界であればヒット曲の傾向分析など、あらゆる領域の課題解決に応用できる学問です。せっかく習得したスキルや知見を、鉄鋼所の製造ラインへの活用に限らず、さまざまな分野に実装してみたい…。私の興味関心は、徐々にデータを起点にしたビジネスや科学、社会課題の解決へと移っていきました。

外資系コンサルティング企業に転職し、データを活かした社会課題の解決に挑む

データ活用による社会課題の解決をリードしている環境を求めて、2017年にアクセンチュアに入社しました。私は鉄鋼メーカー出身だったこともあり、素材エネルギー本部という部署に配属されました。コンサルタント時代で最も印象に残っている仕事といえば、日本の石油業界に関わる官庁共同の大規模プロジェクト。石油産業の効率化、安全性向上、環境負荷低減などの指標において、国内各社がアライアンスを組める領域を模索し、いわゆるオイルメジャーに対抗するための取り組みを推進していく業務です。石油産業は国のエネルギー安全保障にも関わる重要な領域でもあり、国内各社のデータをシェアリングすることで新たな価値創造を追求していくプロジェクトは、非常にエキサイティングでやり甲斐のある仕事でした。

愛媛県のハウスメーカー、コラボハウスとの運命的な出逢い

いつかは自分で事業を持ちたい…そう考えていたときに、知人を通じて巡り合ったのが、コラボハウスというハウスメーカーでした。コラボハウスは創業者の家づくりにまつわる課題意識から、「とことん理想を形にできるハウスメーカー」を目指して、2008年に愛媛県で生まれた会社です。デザイン性と品質の高さを両立させた注文住宅がお客様の支持を集め、四国エリアでは既に認知度の高いブランドへと成長していました。2名の創業者の手腕によって関西・東北エリアにも拠点が広がり、社員数もいよいよ100名を超えるフェーズを迎えたところで、主にマネジメントにおける経営課題を抱えるようになっていました。会社としての長期的な成長を見据えて、事業を承継してくれる後任者を探していた際に、ご縁を通じて私にお声がけをいただいたのです。

未知のキャリアへのチャレンジ!コラボハウスの代表取締役に就任

図面に向き合うモノづくりという観点では、鉄鋼メーカーでの経験はあるものの、家づくりとは異なりますし、何より社長としての会社経営は初めてです。一方で、コラボハウスの創業者のお二人から直接お話を聞いたり、実際に会社を見学したりするなかで、強く心が惹かれている自分もいました。今後の成長の可能性が感じられる会社でしたし、このようなチャンスは二度とないかもしれないという直感もありました。当時の私の周囲に、事業会社の経営にいきなり参画するというキャリアに進んだ人は、ほとんどいなかったのです。また、私のマネジメントスタイルや仕事の進め方を知ってくれている友人からの紹介だったことも、安心感の一つになりました。うまくいくかはわからないけど、やらずに後悔するよりもチャレンジしてみよう!かなり悩んだ末の決断でしたが、2024年10月に、コラボハウスの代表取締役に就任させていただきました。

今後の成長に向けて再定義した、会社としてのミッション&ビジョン

株式会社コラボハウス 代表取締役 松坂 直樹さんコラボハウスは創業より、目の前のお客様お一人お一人、一棟一棟の家づくりに真摯に向き合ってきた会社です。一方で、従業員が100名を超え、売上高も100億円規模へと迫ってきた今、私たちの社会的な使命もまた大きくなっていると感じています。そのなかで、我々が手がける家づくりの先にあるもの―― いわゆる自社の存在価値に、お客様や取引先様の声を通じて改めて気がついたのです。「コラボハウスっていい会社だよね」「おしゃれな家を建てるよね」「とても感じの良い社員さんだよね」…日々の現場でいただけるこのようなフィードバックのおかげで、会社として掲げるべきミッション&ビジョンを、ようやく言語化することができました。

私たちのミッションは、あらゆる場所にファンをつくっていくこと。「ファン」という言葉には、「喜び(Fun)」と「愛される(Fan)」の2つの意味があります。家づくりを通じて、お客様に幸せを提供すると同時に、人や地域から愛され、応援されるような存在になっていくこと。さらにその先には、「Next LOCAL、New LIFE」―― 家づくりを通じて、地域社会の新しいカタチを創造するという独自のビジョンを描いています。地方の人口や家族世帯の減少により、新築住宅の着工戸数が激減している今、住宅業界では既に値引き合戦や広告の垂れ流しによる顧客の奪い合いが始まっています。しかしその先には、業界全体が疲弊する未来しかありません。一方で私たちのビジネスモデルには、社員に利益を還元しながら、引き続き会社を成長させていける勝算があります。そのうえで我々が、地域社会に対してどのような付加価値を提供できるのか…? 私がコラボハウスに出逢ったときに感じた可能性の正体は、家づくりを通じた地域活性化という、新たな常識をつくる会社になれるというイメージだったのです。素敵な家が建ち、幸せな人たちが暮らす街には人やモノが集まり、ひいては地域全体が明るく元気になっていく…。コラボハウスが創業よりコミットし続けてきた理想の家づくりが、実は地域課題の解決に繋がっていたことを再認識し、ミッション・ビジョンを言語化したことでより確信が深まりました。

産学連携で地域活性化に貢献!愛媛大学とネーミングライツ・パートナー契約を締結

私たちはこのたび、国立大学法人愛媛大学と、大学施設のネーミングライツ(施設命名権)に関するパートナー契約を締結しました。これにより、2030年3月末日までの5年間、愛媛大学城北キャンパスのグリーンホールは、「コラボハウスホール」へと愛称が変わります。同大学では、2026年度から県内初の建築コースが新設されました。建築業界の未来を担う学生たちが、「愛媛で学び、愛媛で活躍したい」と思えるような環境をつくることは、地元のハウスメーカーである私たちの使命のひとつだと思っています。学生たちには、建築の現場に触れる機会やインターンシップの受け入れ、新たな技術やアイデアに繋がる共同研究の機会などを、積極的に提供していきたいと考えています。社員やお客様、取引先様はもちろん、関わる地域の皆さまと共に、幸せを分かち合える未来を描いて、私たちは今後も地域との繋がりを深めてまいりたいと思います。

 

◆ 編集後記 ◆

今回の松坂社長の取材は、オンラインでの実施となった。なぜなら、我々は東京におり、松坂氏は愛媛にいらっしゃったからだ。2024年に大手外資系コンサルティング企業のシニアマネージャーのキャリアを捨て、ハウスメーカーの経営者という未経験かつ異色のキャリアを選んだ松坂氏。しかも、勤務地は愛媛県である!まだ幼いお子様と離れての単身赴任は、ご本人の覚悟はもちろん、ご家族の理解も必要だったことだろう。平日はご家族と離れて暮らしていても、毎朝LINEビデオを繋げてお子様たちと朝ごはんの時間を過ごすのが日課になっているそうだ。

今回の取材を機に、筆者は愛媛に素敵なハウスメーカーが存在することを初めて知った。コラボハウスのWebサイトを拝見すると、同社が手がけたデザイン性の高い住宅の施工事例が多数紹介されており、思わずマイホームの夢が膨らむ。驚いたのは、「Instagram」「YouTube」「TikTok」「Facebook」「X」「LINE」など、同社の公式アカウントはあらゆるSNSを網羅しており、メディアごとに戦略的な発信が行われていることだ。また、いわゆるモデルハウスの代わりに、1府6県に「スタジオ」と呼ばれるスタイリッシュなオフィス空間を構え、「無料相談会」の開催をはじめとした顧客との接点の機会を地域に開放している。子育て中のご夫婦が打合せに集中でき、お子様たちも退屈しないよう、各スタジオに保育士が常駐している点も、顧客視点が徹底されていて素晴らしい。

長らく会社を率いてきた創業者が退任し、松坂氏が新たな社長として経営に参画したときには、社内でも混乱があったことだろう。四国エリアで確かなブランドを築いてきた会社だけに、新社長として次なる成長ビジョンを描き、その実現を期待されることへのプレッシャーというのは計り知れないものだ。単に家を建てるだけではなく、「この街に住みたい」と思う人を増やし、地域をより豊かにすることが私たちの使命であり、存在意義である―― 代表に就任後、会社としてのミッション・ビジョンを言語化するために何度も議論を重ね、その一言一句に魂を込めたと語る松坂氏。彼のように東京で活躍してきた若くて優秀な人材が、地方企業の経営に参画するという大胆なキャリアを選択することで、地域に新たな風が巻き起こっていく…。そんなニュー・スタンダードを創ってくださるような気がして、今後の展開が非常に楽しみである。

取材:四分一 武 / 文:アラミホ

メールマガジン配信日: 2025年8月4日